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早稲田と慶應の創始者の仲
【2018/09/24 10:22】 エッセイ
【福澤諭吉と大隈重信】

『福澤諭吉』
一八三四―一九○一 明治時代の啓蒙思想家、慶應義塾の創立者。天保五年(一八三四)十二月十二日、豊前国中津藩士福澤百助(四十三歳)と妻順(三十一歳)の第五子(末子)、次男として、父が廻米方を勤める大坂堂島の玉江橋北詰中津藩蔵屋敷内(大阪市福島区福島一丁目)で生まれた。諭吉の名は、十三石二人扶持の軽格ながら学問好きの百助が、長年望んでいた唐本の『上諭条例』を、当日入手したのに因む。生涯ほぼこの幼名で通す。七年六月、志を延べ得ないまま百助は脳出血症で死去。一家は藩地中津へ帰り、兄三之助が家督を相続し、諭吉は、叔父中村術平の養子となって中村姓を名乗った(ただし福澤家で生活)。

一家は中津での生活になじめず、彼は、下級武士・母子家庭の子としての無念を味わった。前半生を活写した『福澤自伝』における「封建門閥は親の仇」の語は、この体験に由来する。十四、五歳で漢学を習い始めて、おもに白石常人に師事し、上達すこぶる速かった。嘉永六年(一八五三)のペリーの来航は、福澤に中津を離れる機会をもたらした。安政元年(一八五四)、蘭学修行のため長崎に出、翌年、大坂の緒方洪庵の適々塾に入り、やがて塾長となった。

五年、藩命によって江戸へ赴き、十月中旬、築地鉄砲洲中津藩中屋敷(東京都中央区明石町十番一号)内の長屋に蘭学塾を開いた。慶應義塾の起源である。この間、三年兄の死去により復籍し、福澤の家督を継いだ。六年、横浜を見物し、蘭学が役に立たぬことを知り、英学の独習を始めた。万延元年(一八六〇)、幕府の遣米使節派遣に際し、希望して、軍艦奉行木村喜毅の従僕との名目で、正―五月、咸臨丸に乗って渡米、ウェブスター辞書を購求し、日本人としてはじめて持ち帰った。八月、最初の出版物『(増訂)華英通語』を刊行、またこの年、幕府の外国方に雇われ、外交文書の翻訳に携わるとともに、塾の教育を英学に切り換えた。翌文久元年(一八六一)、二十八歳で、中津藩士江戸定府土岐太郎八の次女錦(十七歳)と結婚、芝新銭座に移転した。夫妻はのち四男五女を得る。
この年十二月から一年間、幕府の遣欧使節に随員として参加し、仏英蘭独露葡などを歴訪、国情視察と原書購入に努めた。その際の記録として、『西航記』『西航手帳』がある。三年、中津藩中屋敷内に移転、この頃暗殺の危機を感じ、夜間の外出を慎む。元治元年(一八六四)、召出されて幕臣となり、外国奉行翻訳方を命じられた(百俵高、勤役中五十俵増高)。慶応二年(一八六六)秋、大小二本を残して刀剣を売り払い、翌年正―六月、幕府の軍艦受取委員の一行に加わって渡米、ウェーランドの経済書をはじめ原書多数を購求した。三度目の洋行であったが、旅行中上司に楯ついたかどで、帰国後一時謹慎を命じられた。

幕臣として彼は「大君のモナルキ」を主張した。生涯を通じて多産な著作活動は、慶応年間に始まった。『西洋事情』がこの時期の代表作で、初編=明治元年(一八六八)、二編=三年と刊行され、偽版も含め二十万ないし二十五万部売れて、西洋の制度と理念の紹介者としての彼の名を高くした。その前後、『電銃操法(慶応二―明治三年)』、『西洋旅案内』『条約十一国記』『西洋衣食住』(以上慶応三年)、『訓蒙窮理図解』『兵士懐中便覧』(以上明治元年)、『洋式明艦』『掌中万国一覧』『英国議事院談』『清英交際始末』『世界国尽』(以上同二年)がある。その間、慶応三年十二月、王政復古があり、新政府から出仕を求められたが辞退し、以後生涯官職に就かず、位階勲等を受けなかった。

逆に明治元年、帯刀をやめ平民となって、塾に力を注ぐことを決意し、芝新銭座に再移転して慶應義塾と命名し、彰義隊の戦の際も講義を休まず、四年さらに三田に移転した。また二年、福澤屋諭吉の名で出版業に着手した。つづく数年間にわたる文明開化期、啓蒙思想の鼓吹に全力を尽くした。「天は人の上に人を造らず」に始まる『学問のすゝめ』(明治五―九年)、文明進歩の理法を得『文明論之概略』(八年)をはじめ、『啓蒙手習之文』(四年)、『童蒙教草』『かたわ娘』(以上五年)、『改暦弁』『二本地図草紙』『文字之教』『会議弁』(以上六年)」、『帳合之法』(六―七年)、『学者安心論』(九年)を相ついで刊行し、「一身独立して一国独立」の主張、封建道徳の痛罵、「実学」の提唱など、徒意識の変革を説き、人心を「文明」に導こうとした。

その思想は、バックル・ギゾー・トックビィル・スペンサーの影響を受けている。また明治六年、明六社に参加(『明六雑誌』にも執筆)、七年『民間雑誌』を創刊、三田演説会を開き(翌年、三田演説館を開館)、九年、『家庭叢談』を創刊した。活動の最盛期にあたり、『学問のすゝめ』は偽版を含めて三百万部売れたといわれ、守旧派に物議をかもす反面、当時の思想家中随一の人気を得た。その一方、十年の西南戦争には、『丁丑公論』を著わして西郷隆盛を悼み、つづく自由民権運動には『国会論』(十二年)で国会の即時開設による人心の呼吸を説き、また神奈川県下九郡人民の「国会開設の儀に付建言」を代筆した。その前後の著作として、『分権論』(十年)、『民間経済録』(十―十三年)、『通貨論』『通俗民権論』(以上十一年)、『福澤文集』『通俗国権論』(以上十一―十二年)、『民情一新』(十二年)がある。

さらに十一年、東京府会議員(翌年辞任)、十二年、東京学士院の初代会長(十四年辞任)を勤め、十三年、社交倶楽部としての交詢社を結成した。しかし民権運動の高揚とともに警戒心を強め、十四年、『時事小言』を著わして「内安外競」を説くに至った。政府首脳も、彼に託して機関紙発行を企てる。その企図は十四年政変で破れたが、翌十五年、彼は「不偏不党」「官民調和」を掲げる日刊紙『時事新報』を創刊、連日のように社説・漫言などを執筆した。以後彼の文章はまず同紙に掲載され、その一部が単行本となる。こうして刊行された書物には『時事大勢論』『帝室論』『兵論』『徳育如何』(以上十五年)、『学問之独立』(十六年)、『全国徴兵論』『通俗外交論』(以上十七年)、『日本婦人論』後編(本編は刊行されず)、『士人処世論』『品行論』(以上十八年)、『男女交際論』(十九年)『日本男子論』『尊王論』(以上二十一年)、『国会の前途 国会難局の由来 治安小言 地租論』(二十五年)、『実業論』(二十六年)があり、日清戦争に及んだ。その関心は多方面にわたるが、皇室を「政治社外」に置こうとする皇室論、家族の基本を夫婦として男女の同権を説く女性論などに、とりわけ特徴があり、また「尚商立国」をめざした。

アジア政略もしきりに唱え、一時、金玉均ら朝鮮開化派を援助したものの、議論の基軸は『脱亜論』(十八年)にあった。それだけに明治二十七、八年の日清戦争を「文明明暗の戦」と熱烈に支持し、戦後は労働問題・移民問題および植民地となった台湾経営問題などに、資本の立場から関心を示す一方、仏教的な人生観にも傾いた。この時期の『福翁百話』(三十年)、『福澤先生浮世談』(三十一年)、『修身要領』(三十二年)、『福翁百余話』(三十四年)は、老境の処世訓であり、『女大学』を批判した。『女大学評論 新女大学』(三十二年)もある。また三十年、著述生活を振り返った『福澤諭吉全集緒言』を手始めに、三十一年、『福澤全集』全五巻、三十二年、『福翁自伝』を世に送った。

三十一年秋、脳溢血を発し、一旦回復したものの、三十四年一月再発、二月三日、六十八歳で死去した。衆議院は哀悼を決議した。八日、東京市外白金大崎村(東京都品川区上大崎)の浄土宗浄光寺に葬られたが、昭和五十二年(一九七七)港区元麻布の善福寺に改葬された。法名大観院独立自尊居士。妻錦は大正十三年(一九二四)死去した。門人たちが師の晩年、その思想の精髄として探りあてた「独立自尊」の四文字は、福澤の代名詞のように人口に膾炙した反面、門下から実業家が多く出た。慶應義塾編『福澤諭吉全集』全二十一巻(昭和三十三―三十九年)別巻一巻(同四十六年)がある。

【参考文献】
『慶應義塾百年史』、丸山信編『福澤諭吉とその門下書誌』、
占部百太郎編『福澤先生哀悼録』(慶應義塾学報三九(臨時増刊)、石川幹明『福澤諭吉伝』、羽仁五郎『白石・諭吉』(『大教育家文庫)七』、
家永三郎『近代精神とその限界』(『角川新書』八)、
小泉信三『福澤諭吉(『岩波新書』)青五九〇』、
遠山茂樹『福澤諭吉―思想と政治との関連―』(『UP選書五八』)、ひろたまさき『福澤諭吉』、安川寿之助『増補版二本近代教育の思想構造』、鹿野政直『福澤諭吉』(『人と思想』二一)、丸山真男『「文明論の概略を読む」(岩波新書)黄三二五―三二七』、
同『福澤における「実学」の転回(『東洋文化研究』三)、冨田正文『考証福澤諭吉』

鹿野政直著:国史大辞典より転載

 
『大隈重信』
一八三八―一九二二 明治・大正時代の政治家。天保九年(一八三八)二月十六日佐賀の会所小路の、父信保、母三位子の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は代々、佐賀藩に砲術・築城家として仕え、父信保も知行地四百石、物成百二十石を支給された上士であった。だが、大隈は十三歳で父を失い、それ以後はもっぱら母に育てられた。
七歳で藩校弘道館は外生寮(蒙養舎)に入学、十六歳で内生寮に進級したが、葉隠主義と朱子学を主とする藩校の制度に反発し、安政元年(一八五四)義祭同盟に加わり、翌年弘道館の南北寮騒動の首謀者として放校され蘭学寮に移った。のち、蘭学寮が弘道館と合併されてその教官となった。

文久三年(一八六三)長州藩の下関外国船砲撃にあたり長州藩援助を計画、また元治元年(一八六四)の長州征伐に際しては、藩主鍋島直正を動かして長幕間に斡旋し、それを中止させようとしたが果たせなかった。このころ、長崎でオランダ系米人宣教師フルベッキについて英語を学び、慶応元年(一八六五)五月長崎に英学塾「致遠館」を設立し、みずからその経営に当たった。こうして大隈は幕末動乱に京都・兵庫・長崎などに赴いて尊王激派として活躍し、同三年三月には将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告しようとして副島種臣とともに脱藩上京したが、間もなく藩役人に捕えられて佐賀に送還、一ヶ月の謹慎処分をうけた。

明治元年(一八六八)三月徴士参与職、外国事務局判事として横浜在勤を命ぜられ、キリスト教徒処分問題でイギリス公使パークスとの外交交渉にあたり、十二月外国官副知事に昇進、翌年三月会計官副知事を兼務し贋金問題の処理にあたった。ついで大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開局などに尽力し、同三年九月参議に任ぜられ、六年五月大蔵省事務総裁ついで大蔵卿となり十一年五月地租改正事務局総裁を兼任、十三年二月参議専任となった。この間征韓論に反対し、七年の台湾出兵で蕃地事務局長官、十年の西南戦争では征討費総理事務局長官となり、大久保政権の一翼として財政問題を担当、秩禄処分・地租改正など改革の推進者となり、また殖産興業政策を進め、いわゆる大隈財政を展開して近代産業の発展に貢献した。特にこのとき岩崎弥太郎の三菱汽船会社を援助し、後年までの三菱との密接な関係をつくったことは有名である。

十四年三月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張、また開拓使官有物払下げに反対、さらに財政上の不手際も加わって薩長勢力と衝突し、十月参議を免ぜられ、大隈派とみられた多数の官吏も辞職した。(明治十四年の政変)。
政変後大隈は、小野梓・矢野文男ら辞職官吏と政党組織をすすめ、翌年四月立憲改進党を結成して総理となり、十月に東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。二十年五月伯爵を授けられ、二十一年二月伊藤内閣の外務大臣となり、ついで、黒田内閣で条約改正交渉にあたったが、外人裁判官認容問題で激しい反対に遭い、二十二年玄洋社写真来島恒喜に爆弾を投げつけられ負傷して辞職した。そののち枢密顧問官となったが、二十四年十一月自由党総理板垣退助と提携したため免官された。

二十九年三月改進党を中心に小政党を合併して進歩党を結成し党首となり、間もなく薩派と提携して松方内閣の外務大臣となり(松隈内閣)、翌三年三月農商務大臣を兼任したが、薩派と合わず十一月に辞職した。
三十一年六月、多年の宿敵板垣とともに自由・進歩両党を合同させて憲政党を組織、ついでわが国最初の政党内閣(隈板内閣)を組織したが、両党派の対立と閣内統一に苦しみ、わずか四ヶ月にして憲政党は憲政党(自由党派)と憲政本党(改進党派)に分裂し、隈板内閣も総辞職した。

そののち大隈は憲政本党の総理としてなお政党を率いたが、四十年一月に高齢のゆえをもっていったん政界から引退し、四月に早稲田大学総長に就任した。このあとしばらくの間「文明協会」を設立し、「新日本」「大観」などの雑誌を発行し、また多数の著書を著わし各地で後援会・演説会を開いて国民文化の向上に努めた。
ついで大正初年の第一次護憲運動が起ると再び政界にもどり、立憲同志会の援助のもとに大正三年(一九一四)第二次大隈内閣を組織し、内務大臣を兼任、第一次世界大戦に参戦し、また翌四年には対華二十一固条要求を提出し、陸海軍軍備の拡大につとめた。同年八月内閣を改造し、外務大臣を兼務し翌年七月侯爵に叙せられたが、十月総辞職し、完全に政界から離れた。

大隈はきわめて磊落かつ楽天家であり、そのため「民衆政治家」と呼ばれて人々に親しまれたが、他方「早稲田の大風呂敷」などと悪口もされた。大正十一年一月胆石症のため早稲田の自宅で死去した。八十五歳。
十七日に日比谷公園で国民葬が催され、音羽(文京区大塚)の護国寺に葬られた。著書に『開国五十年始史』『大勢を達観せよ』『国民読本』『東西文明の調和』『大隈伯昔日譚』などがある。

【参考文献】:早稲田大学社会科学研究所編『大隈文書』、
大隈候八十五年史編纂会編『大隈候八十五年史』、渡辺幾治郎『大隈重信』、同『文書より見たる大隈候』、中村尚美『大隈重信』(人物叢書七六)柳田泉『明治文明史における大隈重信』 中村尚美著:国史大辞典より転載


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