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維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

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『嗚呼・山縣有朋』 ー国家を私物視した男ー
【2019/04/30 22:12】 エッセイ
「吉田松陰」の的外れな人物観

近代日本、「明治維新」は国家的な成功例として日本国はもとより、中国の清朝末期にも影響を与えた。
だが、日本は夜郎自大な錯誤の国家間観を抱いてしまった。
西欧が個人の努力の集合体として、英々の努力を積み重ねた結果に気付いたものは『国家と共に生きる』人間の生き方であった。
その国家とは、『人は生まれながらに人権を保証された存在である』国民が造り上げたものが近代市民社会の到来を前提とした、近代国民国家であった。
その意味で、日本の明治維新は三段跳びのような国家を模索したのであった。
人権の何たるかを知らず、始めに天皇制国家ありきの考え方であった。
日本の成り立ちを知って、古代にその範を求めたのであった。
西欧において、王制の専制打破が結果として国民主権という人権思想を求めるうねりが、長い徳川幕藩体制の在り方から、三段飛びのごとくに西欧先進食国からの侵略を排撃できる新国家を模索したのは、ある意味では」致し方ないことであったといえる。
しかし、西欧社会の国民国家への指向は、長年にわたる国民の願望であった経緯を知悉して、西欧に学べ!という大号令とはいささか事情を異にする。
正しい国家間と、それに付随する軍隊は、本来的な意味における国家防衛としての機能を有するという、使命を逸脱してしまい、己の権力のみを指向した山縣有朋の手に因って、いつしか軍事国家への道を歩ませてしまった。
所詮は軍人である。帝国主義時代の背後にある『国家とは何か』を見極めない権力機構を作り上げてしまった。

山縣有朋の犯した罪は大きい。国家権力から糾弾されてしかるべきものである。
どうして、こんな人物が最高権力者に登り詰めたのか?
国権の発動の源泉を知らず、国際社会において、存立することが至上命題と心得ていた狭量な思考が生んだ悲劇に他ならない。
長州が日本の近代国家を創出したのは幻想である。
萩の松陰神社の正門をくぐると、左手に『明治維新胎動の地』と、特筆大書した佐藤栄作の書になる石碑に出会う。
不完全な明治国家を創出した長州藩の努力を、無批判に礼賛したものである。
その所以は、心ある人には『下らない幻影』としての近代国民国家を礼賛するあまり、こうした歴史を直視できない人達にとっては好都合の結果であったのに違いない。

その結果を見よ! 『国破れて山河あり』の状態、すなわち、大日本帝国の崩壊である。
正しい国家間や、それの属性としての軍隊の在り方に固執した姿が、国家(日本国)を消滅に追いやった。
『枢密院議長、元帥陸軍大将、従一位大勲位、功一級公爵』。この墓誌が誰のものであるか?問いたい。
近代日本は、成功した国家との幻影は棄てなければなるまい。

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『薩長土肥越水』 ー明治維新のふるさと巡りー
【2019/04/15 11:42】 エッセイ
『明治維新のふるさと』 ー大和魂とはー

6年の歳月と時間を費やして薩摩、長州、土佐、肥前、越前、水戸の幕末維新期の雄藩を現地に踏査しました。
明治維新は何故起ったか?ここをしっかりと押さえないと、現在の日本の姿は正しく理解出来ません。最近の傾向として、『薩長史観』への批判の書が幾つか散見される。だが、ある意味では乱暴な、我田引水的な論調で、感情論もどきの内容である。歴史は、理路整然と矛盾無き姿で進展して行くものではない。時に矛盾を孕みつつ、力の論理で強者が弱者を抹消してしまう場合も多い。
何故、米国の在り方や指示に対して、現在の日本は対米追従の国際外交を日本は行っているのか、この問題をしっかりと理解しておく必要があります。源流は、明治維新の在り方に問題があるのです。近代国家のビジョンを正しく描けていないまま、あるいは有ある部署の台頭と専横によって国家が歪められる。日露戦争後の日本のありかたを見るとき、それが顕著である。軍人または軍政家が恣意的な倒閣を目論み、政治のありかたを歪め軍国主義にはしって亡国を招いたのは、大いに反省しなければならない。その結果は、自国の防衛すら憲法で明記出来ていない、不思議な独立国家となっている。自衛隊員が自国の防衛のためという重大な任務を持ちながら、その存在根拠が憲法に記されていないのです。ハンムラビ法典を持ち出す以前に、当然の国家の在り方が自衛の軍を持てない。その代償はあまりにも大きい。帝国主義の敗北というだけでは語りきれない。

190415家紋毛利家

私の幕末維新史の研究は吉田松陰がメインで、長州(現山口県)には3度も足を運んだ。
初めて萩の街を見た時、それは想像もしていなかった世界でありました。
江戸情緒の風情が残る武家屋敷一帯を散策した時は感動ものでした。
萩城址、松陰神社と松陰生誕地と杉家・吉田家の墓も忘られない。
野山獄、大照院、高杉晋作生家、木戸孝允の生家、萩博物館。萩は美しい街である。
菊屋横町、呉服町あたりの家並みは頭に焼き付いている。
何故に、長州藩が幕末維新史のみならず、現代も総理大臣排出県として君臨しているのか。

これには、村田清風という偉人を知らなければならない。
多くの本を読んでも、村田清風の生き方に異論を唱える人にまだ出会えていない。
当時は藩=国家であった。清風は、狭い情報網の中から現実の世界情勢に対して識見を持っていた。
それ故、吉田松陰が安政元年三月に下田からペリーの軍艦で米国行きを敢行したか。
その命懸けの行為に対して、『これはよいことをしてくれた、これが物事の端緒というものじゃ!』。
といって松陰の行為を高く評価した一人だった。

西欧社会では、18世紀の半ばから、いわゆる『第一次産業革命』が進行していたのであった。
動力や機械の工夫によって、大量生産を実現して安価な商品を販売する、近代経済の萌芽がそこに見られる。
米国が本国たる英国の植民地の人々に、高い税金を収奪していた。
これに対する反発が独立戦争となった。だから、1776年に『独立宣言』がなされる。
人間は生まれながらにして平等なのだ。人権を踏みにじる国家は糾弾されてしかるべきという考え方(思想)であった。

おりしも、こうした近代化への目覚めは、近代合理主義を生み出す土壌を内包していた。
英国で、アダムスミスが、いわゆる『国富論』を刊行したのが、同じ1776年であった。
生産性を高めることが、国富の増進となるということを社会現象の中から見出したのであった。
アダム・スミス、スコットランドの名門大学である『グラスゴー大学』の総長をしていたのであった。
当時は英国と競っていたフランスがパリを中心に、欧州のシンボルとして多くの知識人、政治家が集ったという。
いわゆる『百科全書派の人達』で、ここに多くのノウハウを持った人達が国運の隆盛を願いつつ、人が集まり、情報の発信基地になった。英米仏が世界の指導的地位を築いたのあはこの頃であった。
190415家紋島津家

鹿児島は、西郷人気が圧倒的です。維新展示館や甲突川沿いの加治屋町から維新の元勲が輩出されている意味がよく分かる。城山、照國神社、鶴丸城、尚古集成館等々、あの時代で西洋の技術導入に取り組んだ島津斉彬。名君として地元の人気は高い。西郷隆盛も斉彬ありてこそである。反面、大久保利通は鹿児島中央駅近くの銅像と維新展示館に名前が見られるのみ。歴史上の人物は一方では正しく評価されないけれど、実績・功績も正当に評価してやらないと大久保がかわいそうな気もする。征韓論が正しく理解されないと、西郷を追いやった大久保が悪者になるのだ。決して喧嘩状態では無い。日本の近代化を成し遂げるために、優先順位をめぐっての政策や世界の大勢を知って日本の将来のあるべき姿を追求した大久保。岩倉遣欧使節団の成果は、大久保や木戸らは征韓論(遣韓論が正しい言い方)より富国強兵、殖産興業政策が優先された。その結果『廟堂の敗者』西郷隆盛は大きな銅像のとおり、鹿児島では英雄である。

190415家紋土佐山内家

薩長に比べ、土佐は山内容堂の個性が藩の動きをある面では掣肘している。関ヶ原の後の抜擢への恩顧意識が、公武合体政策から抜け出せなかった。土佐は現代でも、中央に横たわる四国山脈の南側は独特で、その昔、土佐日記に見られるように僻地であった。武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎等々の活躍に負うところが大きい。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は三千万部の出版史上空前の売れ行きが示すように、司馬さんの作品が土佐の地位を上げた観が残る。藩の上層部と志士たちの一体化ができなかった事が、薩長の後塵を拝することになるのはやむを得ないところだ。その意味では山内容堂と島津斉彬を同じ土俵で比較するのは、斉彬に対して失礼だろう。土佐藩が長崎で武器や船舶の購入に、藩をあげて取り組むのは慶応年間に入ってからである。藩主の経綸がしっかりしていないと、志士たちの活動が結果的に徒労に終わってしまう。後藤象二郎が明治以降の活動を通じて有能であったかどうかは疑問が残るところだ。薩長と土佐の功績の溝は限りなく大きいと云わざるをえない。『薩長・・・土肥』と表現するのが正しいのかも知れない。


190415鍋島家

肥前佐賀藩は、藩主の鍋島侯が天保年間に進んだ技術で軍事大国の様相を見せたが、肝心の幕末期に『佐幕思想』から脱却できないこととなった。佐賀城本丸歴史観の職員が、鍋島侯の不人気を嘆いていたのは象徴的だ。しかし、維新以降は優秀な官僚が大隈、江藤、大木、副島等々続出したので、薩長土肥の集まりには参加出来た。しかし、肩身の狭い思いが残るようだ。弘道館に学んだ秀才達は概して能吏型の人物が多いといえる。大隈は『佐賀の七賢人』と云われる群像の中では、最年少であった。総理大臣を二度務め、大久保利通亡き後の政治家で実質上の首相格で明治政府を牽引したが、独逸に範を求めようとした長州派との違いから政界を追われたのは残念である。英国流の議会に範を求めなかった伊藤博文達の政策は正しかったかどうか、もう一度考えて見る必要があるようだ。鍋島閑叟は島津斉彬とは従兄弟の関係にある。薩摩と共同歩調をとれなかったのは、佐賀藩の二重鎖国という特殊な他藩人との交流を持たなかったことにあるのかも知れない。江藤新平などは大久保利通の最も嫌った人物だった。佐賀の乱の鎮圧に向かった大久保利通の行動は、三権分立を越えて、全権委任の下であった。だから十分に調査をすることもなく、葬り去ることに急で即刻処刑してしまったのであった。


190415越前松平家

越前は藩主の慶永の存在無くして語れまい。親藩筆頭の地位にありながら、幕府の屋台骨を支えなければならなかったのは致し方ない。横井小楠を顧問で招聘したことで、慶永は要職を務められたといってよい。しかも、将軍継嗣問題で橋本左内を活躍させたものの、安政の大獄で慶永が謹慎させられ、その間に有能な橋本左内が犠牲になってしまった。しかし、幕末期の重要資料を遺してくれたことで、研究者にとってはありがたい藩の一つである。中根雪江、鈴木主税、村田氏壽、由利公正等々の人材を輩出出来たのも春嶽の功績ながら、地元では『ぼっちゃん』と揶揄を込めた言い方が為されるのは、田安家からの養子で入った事情も勘案しなければなるまい。徳川慶喜との協力関係は、竟に信頼関係を築けず薩長への理解ある態度と徳川政府を擁護しようという思いが、薩長との決定的な違いとなってしまった。越前松平は家康の次男である結城秀康を藩祖に持つので、徳川政権に叛旗を翻せなかったのは、ある意味でやむを得ないかも知れなかった。その点では、会津松平、あるいは尾張徳川家も多少の違いこそあれ、似たような運命にあったと言えるかも知れない。明治の政界で指導者を出せ無かったのは共通していると言えよう。


190415水戸徳川家

最後に水戸藩である。御三家でありながら、天保の改革で突っ走った斉昭が、幕府から時に睨まれ、時に海防参与として揺れ動いた。尊王攘夷の魁けの藩でありながら、『戊午の密勅』で大きく門閥派と斉昭支持はで内訌となり、共倒れで維新期に人材が払底してしまい、維新のばすに乗り遅れてしまった。しかし、斉昭のブレーンだった人達の功績は不運もあるが一定の評価を与えないと明治維新が歪んでしまう。最後に斉昭の七男が徳川の将軍となったことで、貢献は出来たかも知れない。




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