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【社学稲門会OB訪問記】
【2019/09/29 17:28】 エッセイ
がんばれ! 同窓生 ~次世代へ贈る言葉~

平成27年のNHK大河ドラマは、吉田松陰の妹、「文」を主人公にした『花燃ゆ』が放送されています。
早稲田大学社会科学部の2期生(昭和46年卒)の長谷川勤さんは、松蔭大学の客員教授として教鞭をとり、同時に吉田松陰の研究家として、各地で講演や講座を行っています。
そして今まさにNHKのラジオ第2放送で『歴史再発見 松陰と幕末・明治の志士たち』という講座を展開中。
勤労学生だった早稲田大学時代のお話や、日本近代史とのかかわりについて聞きました。

190930早稲田大学190930グラスゴー大学190930小山台高校校章190930アダムスミス肖像吉田松陰

(広報)長谷川先輩、今日はよろしくお願いします。まずは、長谷川さんが早稲田を目指した経緯などをお聞かせいただけますか。

(長谷川)私が群馬県勢多郡黒保根村(現桐生市)の中学校を卒業したのは、昭和37年です。
当時ほとんどの同級生が中学を出たら就職するというのが普通でしたから、私は三菱電機という巨大企業に迷わず就職致しました。
そこで三年間、給料をもらいながら工業高校のような勉強をし、これを卒業すると現場に配属になるといういわば社内高校みたいな制度(昔は、乙種工業高校と云った)。そこに籍を置いたわけです。
15歳で就職して、ある先輩から高校に入らないかと勧められて、自分でも「高校くらい出ておこうかな」という気になって神奈川県立茅ヶ崎高校の夜間部に1年遅れで入学したのです。

茅ヶ崎高校で2年生になった時、掲示板に「ある大学の入試要項」が掲示してありました。
その内容をよく読んでみました。
それまでは出身地や田舎の人間には、高校や大学の受験の仕方・要領などが私にはわからなかったのです。
大学というところは、大いに勉強ができる学業優秀な人間だけが行く【特別な所】だとばかり思い込んでいました・・・・・・。
ところがその入試案内を見たら、国語・英語・社会の3教科が受験科目と書いてある。これで合格すれば晴れて入学できる。
「これなら俺にもできる!」と、合格実現の可能性を見出した時は体中の血液が逆流するような感動体験をしました。

(広報)企業内高校に通いながら受験の決意をされたのですか。

(長谷川)そうです。普通に生活するなら失業の心配ない今の会社に残るか、または大学進学を目指そうか。
半年ほど真剣に悩んだ末に進学する道を選んで、2年生の3学期に都立小山台高校の夜間部に編入したのです。
ところが小山台高校のレベルが今までの茅ヶ崎高校と全然違うので、5だった成績が2や3になってしまった。
生まれて初めて英語で赤点をもらって、そこから奮起しましたね。 それまで英語の成績は抜群でしたから、ショックでした。
仕事が終わって学校に行き、帰ってきて勉強し、翌日また会社に行って・・・・・・。
ついに丸二日間、48時間睡眠なしで英語の勉強に打ち込みんで再試験を受けて何とか落第を免れました。
ところが後で聞いてみたら、約200人の同級生のうちで再試験なしでパスしたのはたった2人だけで、皆再試験でした。
転校直後でそうした事情を知らなかった私は、「これは大変なところに来てしまった」と思いましたが、後戻りできないし、前進するのみしか選択肢がなかったのです。

(広報)そのころには早稲田が視野に入ってきていたのですか。

(長谷川)そう、小山台高校の3年次に成績が平均値を超えるところまでたどり着いて、4年次には生活費と大学の入学資金の貯金ができたのです。この資金で行ける一番良い学校は・・・・・・と考えたら早稲田大学の社会科学部が浮かび上がってきたのです。

(広報)晴れて早稲田大学の社会科学部に合格されたわけですね。

(長谷川)そうです。早稲田に入学したら、会社に行くわけじゃなくて牛乳配達のアルバイトだけですから、勉強する時間がたくさんあった。勉強するのが楽しくて単位もどんどん取りましたね。
昼間は他学部で聴講し、夜は社学で勉強して、1年、2年と連続で上限単位取得と卒業単位に使える夏期講座をこれまた2年連続で受講して単位を取得してしまい、3年、4年は卒業は問題なく見通しが付いたので気楽に過ごしました。
在学中の4年間で「不可」の成績は、教職資格を取る科目試験(第二文学部)の時間帯が重なってしまい、途中退場して文学部の試験へかけつけた時の1教科だけでした。四年の時で、必要単位はおつりが来るほど取得していたので心配なしでした。

(広報)私らの頃は大学に行っても遊んでばかりで恥ずかしい限りですが、当時の学生気質ってどんな感じでしたか。

(長谷川)そうですね。私が在学したのは昭和42年から46年3月迄ですが、あの頃の社学生の半分以上は勤労学生だったのではないかな。
経済的な理由で早稲田の社学にやってくる優秀な勤労学生が多かったと思いますよ。みんな一生懸命勉強していましたね。

(広報)ご友人の思い出を聞かせていただけませんか。

(長谷川)40代や30代の年配の同級生も在学していて、いろんな人がいました。
島根県出身で厚生省に勤務していた友人は、とても学業ができて、確か優を35個も取得して学年で3番だったかな。
そのあと彼は我々の憧れだった全日空に入社しました。
また能弁な友人もいて、彼は入社試験の時の面接試験で「尊敬する人物は大隈重信」と語ってリコーに入った。
さらに仙台二高のラグビー部出身で早稲田でもラグビー部で活躍した友人がいて、この友人は博報堂に入社しました。
彼の会社の同期生に、後に私が研究することになった吉田松陰の妹と結婚し群馬県の初代県令になった楫取素彦の子孫がいたのです。
人の縁は、何時どこでどんな出会いがあるかわからないですね。
そういう意味でも早稲田って出会いの機会が本当に多い、素晴らしい大学だと思います。

(広報)その当時は70年安保で学生運動が盛んだった頃ではないですか。

(長谷川)うん、時代的にはそうだったのかもしれませんが、私自身は学生運動とは無縁な生活をしていました。
当時の社学は創設されたばかりで、社会的評価が定まっていなかった為か、皆さん本当に良く学んで頑張っていたと思います。

(広報)完全昼間部に移行して偏差値が高くなったということも現在の社学の人気の一因かもしれませんが、草創期の学生が良く学び社会に出てからも頑張ったことが学部の評価や信用を高めていった大きな要因ですね。
その草創期の早稲田の社学に入って思い出に残る先生というとどなたですか。

(長谷川)一年生の時の必修科目で、難波田春夫先生の社会科学方法論に出会えて大変感動しましたね~。
聴講しているうちに武者震いがしてきて、聴き終わった後には大変に感動して虚脱感(過度の充足感)を覚え、動けなくなった思い出がありました。
「ああ、こういうのが大学の研究者が打ち込む学問なのだな」と心底から思い、最高の先生との出会えたことに感謝しました。

(広報)私たちの時の社会科学方法論は難波田先生の愛弟子の田村正勝先生が担当されていました。

(長谷川)その後は、先輩に同行をお願いして案内を願い、難波田先生の研究室にご挨拶に行き、4年の時に難波田ゼミに入りました。ゼミ論は「アダム・スミスの経済学成立事情」というタイトルでした。
12月くらいから昼夜逆転の生活で勉強してゼミ論を書き上げました。
アダム・スミスの『国富論』は、1776年に著されたものなのですが、アメリカの独立宣言もこの年です。
国富論が何度目かの改訂版が出されたのは1789年でフランス革命の年です。
その時の日本は田沼意次の時代でもあるのですが、近代社会のメモリアルな時期に書かれたのです。
ちなみにアダム・スミスは、グラスゴー大学で道徳哲学の教授をしていて『道徳感情論』を著しています。
国家・国民の秩序はいかにして形成されるのかというようなことを説いていたのです。
人間は競争することによって生産性も上がり、さらに努力するということなのですが、
1.社会の秩序を保つためには法が必要である。
2.法を導くためには政治が必要である。
3.政治をやり遂げるには国民が豊かでなければいけないという理論で、
最終的には「経済」が社会科学の王座を占めるという教えを難波田先生から授かりました。

この『道徳感情論』と、後の『国富論』の関連性を理解することがとても大事で、日本評論社から出版された『グラスゴー大学講義』を読むとそれが解かるのですが、当時は絶版になっていて購入に大変な苦労をしましたが、執念で購入しました。
この時に、神田の古書店街へ行って『グラスゴー大学講義』を探し当てた。ところが昭和45年当時で六千円の価格でした。
最初六百円と思い込んで喜んだのもつかの間で、よく見たら六千円でした。
がっかりして家に帰りました。ところが、ゼミで研究途上の話をする機会があって、私がこの話をしたら、難波田先生は【それは僕が買ってあげる】と云われた。嬉しさで舞い上がるような感動でした。その時の感動は今でも忘れませんね。
しかし私は本に線を引いてしまうので、熟考して先生に『何とか自力で購入します』と報告したら、先生は【承諾】してくれた。
先生のご厚意がありがたくて、本当に嬉し涙が出る思いでした。
この『グラスゴー大学』が理解できると、難波田先生の『國家と経済』がとてもよく理解出来るのです。
今でも大事に保持していますよ。思い出が沢山詰まっているので処分する気持ちになれないのですよ。

(広報)後任の田村先生の『ロゴスの導くままに』という教えを思い出します。

(長谷川)難波田先生の講義を聞いて段々理解できるようになってくるのですが、理解できた時は物凄い感動を覚えましたね。
学生時代は勉強もたくさんしたし、楽しくて仕方なかったです。

(広報)そう言えば、長谷川さんの娘さんがエミレーツ航空に勤務されていた時にグラスゴーに行く機会があったという話を以前お聞きしましたね。

(長谷川)そうなんですよ、ある時に娘から「今度グラスゴーにフライトする」という連絡をもらったのです。「えっ、ちょっと待てよ。グラスゴー大学は私にとって思い入れのある大学だから、是非写真を撮って来てくれ」と頼んだら、2週間後にたくさんの写真を送ってくれました。あの時は感動したなぁ。自分が若かりし頃、一生懸命勉強したアダム・スミス、その憧れの人が教鞭をとった憧れのグラスゴー大学ですからね。

(広報)素晴らしいプレゼントですね。他に学生時代で何か思い出に残る出来事はありますか。

(長谷川)中学校を出てから9年後の大学4年生の時に教育実習で帰郷した時に、地元で大きな話題になりました。

(広報)どうしてですか。

(長谷川)当時、村では学年で1番か2番くらいの成績の良い学生しか進学しないような状況でしたから、中卒で村を飛び出した若者が九年経って、いきなり教員の免許を取りに教壇に立ったので周りがびっくりしたのでしょうね。
中学校のクラブ活動で、WASEDAのジャージを着て卓球の実技指導もしたこともあってか子供達と仲良くなって、普段勉強しない子たちも勉強しだしました。
テストの平均点も75点くらいになってこれまた周りがびっくりです。教員会議で話題になり、問題が易しいのだろうと後で確認したら、そうでは無かった。このことを私の父親が大変喜んだらしく、後日そのことを聞いた時には嬉しかったですね。

(広報)卒業後は、教師ではなくて企業に就職されたのですよね。

(長谷川)そう、昭和46年に三陽商会に入社しました。我々の頃は業務拡大のために採用が多くて同期が100人以上いました。
私は主に百貨店の担当で、平日に休みがあるものだからゴルフの練習も接待も良くやりましたよ。
今は全然ダメになってしまったけど、良い時はハンディが13くらいまでいったかな。

(広報)三陽商会と言えばバーバリーというか、長島茂雄さんをイメージしますね。

(長谷川)そうね、営業課長時代に長島さんにバーバリースーツのCMキャラクターになってもらいました。
今でもその時にいただいた長嶋さんの色紙が3枚あります。

(広報)長谷川さんの課長時代だったのですか。長島さんのCMは記憶があります。

(長谷川)それから44歳の時に働きすぎて病気になってしまい、100日ほど会社を休んでしまいました。

(広報)歴史との出会いはいつごろですか。

(長谷川)長期病欠して会社での出世はもうないだろうなぁと思い、それからもともとやりたかった近代史をやろうと思ったのです。
五十歳で慶応義塾の文学部史学科の通信課程に学士入学しました。
同時にその頃は、社学稲門会の前身の二水会にも参加していたのですが、合同クラス会の懇親会場で社会科学部の学生担当副主任だった島善高先生にお目にかかったのです。
島先生は社学の名物教授だった木村時夫先生の後任の方で、近代史を勉強したいのですが、と相談を持ちかけたわけです。
論文の試験に通って大学院の科目履修生として1年間、島先生の下で近代史の勉強の仕方を直接学ぶことになったのです。
これが歴史との出会いの大きな一歩だったと思います。慶応の方は『福沢諭吉論』に取り組んで頑張ったのですが、なかなかレポートが通らない、5回出しても駄目であともう少しで卒業のところまで単位を取得しながら中退してしまいました。反面、福澤諭吉は相当に打ち込んで勉強しました。自宅には『福澤諭吉全集』の二十二巻があります。

(広報)吉田松陰の研究はその後ですか。

(長谷川)そうですね、ある時、小学校時代の友人から東松山にある大東文化大学で吉田松陰論の講座があるということを聞いて聴講に行ったのが始まりです。講座の後、帰りにその講師と一杯飲みながら話をする機会があり、「あなた、一度講義をしてみてはどうだ」と持ちかけられたのです。
次回は半年後だというので、『私も吉田松陰の勉強をしてみよう』ということになった。
こういうことも一つの転機なのかなと思いますね。講義はテキストを読まないで語りかけるスタイルでやってみたら受講生の評判が良かった。大東文化大学の講座を何度かやっているうちに松蔭大学の副学長のところにも『吉田松陰の面白い講座を持っているのがいる』という評判が届いたようで、お声が掛ったわけです。
そこでこれまでに学んだことや考えなどの経緯を手紙に書いて副学長に送りました。
その後、松蔭大学の講師として招かれたのは2005年、59歳の時のことです。松蔭大学とは、吉田松陰の松下村塾における教育実績に共鳴して名付けられた大学名なのですが、吉田松陰の研究講座はある意味でこの大学の憲法みたいなものなのです。
今では必修科目になっている学部もあって、みな一生懸命勉強しています。

(広報)吉田松陰の言葉で『草莽崛起(そうもうくっき)』という言葉がありますが、わかりやすく言うとどういうことですか。

(長谷川)志ある民衆の結集こそが幕末の難局打開の秘策だということで、言いかえれば志のある在野の人々の中から日本を変えようと立ち上がることを呼びかけたのです。「立志と実践」ですね。

(広報)アップルの創業者もやる気がなければイノベーションは起きないと言っています。

(長谷川)人間は絶対に「志」を失ってはいけない。その「志の導くままに」学問した先に人生が拓けるのではないかなぁ。
吉田松陰も『学問の大禁忌は作輟なり』と、学問はやったり、やらなかったりではいけないと戒めの言葉を残しています。

(広報)今の学生さんや若者にその言葉を贈りたいですね。

(長谷川)『志があれば道は拓ける』というのが私の座右の銘ですが、これは松陰が残した『士規七則』という教えの中にある「志を立てて以て万事の源となし、全ての源は志にあり」というところから戴いています。
高い志をもって実践することによって素晴らしい人間の出会いが必ずあります。

(広報)まだまだお聞きしたいことはたくさんありますが、この後の話は、NHKのラジオ講座「歴史再発見」と著書に譲りたいと思います。今日は、貴重なお時間とお話をありがとうございました。



<プロフィール>
1946年群馬県生まれ。1971年早稲田大学社会科学部卒業、三陽商会入社。
2005年より松陰大学非常勤講師。2015年より同大学客員教授。「吉田松陰論」を担当。
明治維新の研究から出発し「吉田松陰なくして明治維新なし」との結論に至り、松陰研究に専念。日本歴史学会会員。

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