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佐久間象山の『海防八策』
【2020/06/04 16:46】 エッセイ
『老中・真田幸貫への上書』 ー佐久間象山ー

真田幸貫は【寛政の改革】を指揮した、松平定信の四子であり、外様大名である真田の松代藩主家に養子として入るのは異例な人事であったが、さすがに人物であった。
老中になって、海防掛を担当するや、佐久間象山を抜擢して日本の海防問題を研究させた。
期待に応えた象山は、当時の世界情勢について、数少ない情報通であった。
結果として、この上書は幕府で採用とならなかったが、十五年経過するとその必要性を認識する者が出てくる。
いつの世も、先覚者の努力は、早急に成果を見ないが、人材の発掘をした真田幸貫は流石と言わねばならない。
まず、象山の情報収集から上書までの経緯を記してみる。

① 天保十年、六月二四日付、「阿蘭陀風説書」にて「アヘン戦争」関連情報伝達。清国政府が、広東の英人に対してアヘン密売を禁止する為に欣差大臣を派遣し、貯蔵アヘンを全て没収することを厳命、北京に於てもアヘンを吸飲したものは厳罰に処す等記されて。
② 天保十一年、六月のオランダ船、清国が英国に対して『無理非道之事共有有之候所』から英国は「仇を報いんが為」清に軍隊を派遣、英国の対清宣戦布告を伝える。
(13年終結、香港の割譲、上海、厦門、福州、寧波の開港=南京条約)
③ 「文政の打ち払い令」から「天保の薪水令」への対外緩和策へ切り替え。
④ 浦賀奉行と下田奉行各々独立へ。羽田奉行、浮砲台設置。
⑤ 徳川斉昭の推挙で、天保十二年、眞田幸貫(松平定信の四子)老中へ、翌年「海防掛へ。」同年、「佐久間象山」幸貫の顧問へ、
⑥ かつて幸貫は象山を「修理は随分疵の多い男であるが、しかし天下の英雄だ」と評した。
象山、感激して「あの賢明な殿様から天下の英雄との折り紙は、身命も惜しまぬ忠臣たらん」と決意。
儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術と評した。

アヘン戦争24.5.5佐久間象山


天保十三年十一月「感応公に上りて当今の要務を陳ず」(海防意見書)『海防八策』
一、 諸国海岸要害の所、厳重に砲台を築き、平常大砲を備え置き、緩急の事に応じ候様仕度候事。
二、 阿蘭陀交易に銅を差し遣わされ候事暫く御停止に相成、右の銅を以て、西洋製に倣い数百千門の大砲を鋳立、諸方に御分配之有度候事。
三、 西洋製に倣い、堅固の大船を造り、江戸御廻米に難破船これなき樣仕度候事。
四、 海運御取締の義、御人選を以て仰付られ、異国人と通商は勿論、海上万端の奸猾、厳敷御糾し御座あり度候事。
五、 洋製に倣い、船艦を造り、専ら水軍の駈引習わせ申度候事。
六、 辺鄙の津々浦々に至り候迄、学校を興し、教化を盛んに仕、愚夫・愚婦迄も忠孝・節義を弁え候様仕度候事。
七、 御賞罰弥(いよいよ)明らかに、御恩威益々顕われ、民心愈々固結仕候様仕度候事。
八、 貢士の法を起し申度候事。


佐久間象山の有名な「海防八策」で、これが建白されたのが『天保十三年』である。
そのように考えて見ると、象山の世界認識が、如何に先進性に富んだものであったかが解かる。
吉田松陰への大きな影響を見る事が出来る。
幕府で、象山の卓見をそれなりに評価したのは「川路聖謨」のみであったといわれる。
危機が人材を創出する一例と云えるかも知れない。


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