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『松陰神社』について
【2020/08/03 13:45】 エッセイ

『二つの松陰神社』  ー東京世田谷区と萩市ー

吉田松陰を祀る「松陰神社」は二つある。しかし、二つの神社は「吉田松陰」を祀りながら両者の関係は別々のようである。

200803世田谷松陰神社200803萩松陰神社



東京の松陰神社は、関係者である旧藩主の毛利家や友人であった木戸孝允・門下生の品川彌二郎が中心になって建立した経緯がある。
建立地である東京都世田谷区若林の地は、江戸時代の毛利藩の「火除地」であって、その広さは一万八千坪あまりで、江戸期には藩主の鷹狩りや保養の場所だったという。
明治十五年一月、品川彌二郎らの旧門下生らが中心になって募金活動を行い、文久三年正月五日、二ヶ月前に行った「安政の大獄の大赦令」によって松陰等の罪が赦されたのである。
それまで罪人としての墓地であった千住小塚原に松陰の墓はあったが、これを高杉晋作らが世田谷に移設したのである。
その松陰の墓での南側に建てられたものが世田谷の松陰神社である。
その移設の時、上野寛永寺境内の将軍しか渡れなかった橋を、堂々と高杉晋作が渡ったという逸話があるくらいである。
慶応年間に幕府と対立した長州藩はこの松陰の墓も破壊されたが、維新後になって木戸孝允らの手で修復された。
本殿正面に向かって左右に石灯籠が並ぶが、この筆頭ともいうべき位置に毛利と木戸の名が刻まれている。

一方、萩の松陰神社は明治二十三年、旧門下生で明治になって島根県令を務めた境二郎が中心になって村塾の保存会を発足させ、西側のみかん畑に土蔵造りの祠を建てたのが始まりで、それ以後例大祭などを行うごとに多くの参詣者が集った。
そうして明治四十年十月、この祠を基に社殿を創った。
今では松陰のふるさと萩の松陰神社の方が、多くの観光客を集め「萩市の観光スポット」の代表とも云うべきものなっていて、先発の世田谷よりも多くの参詣者や観光客が訪れるようだ。
当然、松陰の遺品としての著作物などが陳列されている「至誠館」も整備されて、静かにたたずむ世田谷の神社に比して、萩のそれは活気ある神社の様相を呈している。

なお、世田谷の松陰神社にまつわる話を二つほど記しておこう。
生前の松陰と親しかった人物も、神社の一画に墓が在ること。もう一つは、松陰を信奉する二人の人物とのゆかりである。
一人は日露戦争当時の総理大臣を務めた萩市出身の桂太郎の墓が、彼の遺言によって隣接している所に大きな墓石がそびえ立つ。
もう一つは国士舘大学の創設者柴田徳次郎が熱烈な松陰信奉者であったことから、隣接地に大学を移設していることである。
さらに、境内に模築されている松下村塾の塾舎は、もともと国士舘の大学構内の「景松塾」を移築したものである。
柴田は昭和十三年の模築に当り材木を萩から取り寄せるほどの力の入れようであった。
全国の吉田松陰ファンとしてのこうした営為は根強い松陰人気を今日に伝えているものだろう。


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