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吉田松陰研究入門
【2010/06/28 09:02】 エッセイ
ブログ開設から3週間近く経過しました。予想を遥かに超えて、質の高いコメントを沢山頂き大変嬉しく思います。やはり、松陰愛好者と坂本龍馬のファン層の違いのようなものを感じます。龍馬は「大衆性」があります。また「機を見るに敏」のイメージがある人物です。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の強烈なイメージが40年経過してもなお、鮮烈なのかもしれません。夢を描いたことで若者に受ける生き方への誘いのようなものがあるのでしょう。
それに対して松陰は、いわゆる「大衆受け」はしないようです。しかし、幕末にあって学者でもなく、一市民(治者階級ではあったが)的な目線で「日本を心から愛した、極めて日本的な日本人」の代表格と言ってよい人物です。己の信じた道をまっしぐらに突き進む生き方は、ある種の共感を誘います。「至誠」が彼の行動原理の基底をなしています。
松陰の魅力は「至純」に尽きると言ってよいでしょう。「野山獄」と言う藩獄に収監された14ヶ月に618冊もの書籍を読むということは、どう考えても凡人には不可能です。しかも、それを記帳してあるというこの「几帳面さ」には敬服してしまいます。これは「野山獄読書記」として吉田松陰全集に収載されています。
吉田松陰蘇峰著24.3.31


そこで、今日は「吉田松陰全集」の簡単な紹介をしてみます。昭和6年に岩波書店が構想を組み立て、編集委員を3名選出しました。このうちの一人が「玖村敏雄先生」です。これが5年の歳月を要して昭和11年に刊行となりました。これを「定本・吉田松陰全集」といいます。原典に忠実に再現した完璧な全集です。「天金装丁」といって、長期保存に耐えるようにコストをかけて編纂した本物の全集です。しかし、原典に忠実でありすぎたことが裏目に出てしまい、漢学の素養と日本史の素養が両々あいまっていないと、結果的に「猫に小判」となってしまい、限られた高度の教養の持ち主にしか愛用されず、ビジネス的には残念なことになりました。そこは、さすがに日本を代表する岩波書店です、これに改良を加えて原典を読下しにして再販しました。時に昭和14年。よくぞやってくれました。このお陰で、松陰研究が飛躍的に拡大、時代の寵児となったことと歩調を一にして「理解出来る松陰全集」が誕生しました。これを「普及版・吉田松陰全集」といいます。全12巻です。将に山口県教育会の熱意と岩波書店のお陰です。昭和10年代は吉田松陰の書籍が集中して刊行された時代です。
歳月は経過して、戦後生まれの国民にとっては「文語調」の文章は「喉につかえてしまった棘」のごとく、無意識的に取り組むにあたって抵抗感があったようです。そこで今度は昭和47年に「大和書房」が再度の吉田松陰全集を刊行しました。題して「大衆版・吉田松陰全集」です。原典の香りを損なわないように配慮しつつ、脚注を出来るだけ施して、読み易く親しめる吉田松陰を念願にしたようです。これも「山口県教育会」の惜しみない熱意・協賛と大和書房の努力がありました。こうして、3度にわたる「吉田松陰全集」が刊行されました。このお陰で私達は吉田松陰の偉大さを詳細に知ることが出来るようになりました。それでも、難解でありまして、手ごろな研究資料を提供してくれているのが、山口市にある財団法人・松風会という「吉田松陰教学研究団体」が刊行した「吉田松陰選集」です。これは、松陰の主要な文献を簡略にして精査した素晴らしい解説と、行き届いた丁寧な脚注解説が施されています。入門としてはここから取り組むと「松陰の世界」が見えてきます。
山口県百科事典


因みに、私の手元に「山口県百科事典」と言う大著がありますが、ここでの吉田松陰の執筆は、この「松風会」の主要な方々がされています。同じ長州出身の「木戸孝允」や「伊藤博文」、「山県有朋」に比して多大なスペースを割いて、懇切丁寧に解説が加えられています。初代の内閣総理大臣や明治維新の三傑を遥かに凌駕したものです。それだけでも、いかに吉田松陰が山口県民の誇りとして、また日本人の誇りとして理解されているかが解ります。偉大なるかな29年の松陰の生涯です。
明治24年の「吉田松陰伝」を嚆矢として、その後幾多の「松陰本」が刊行されました。200種超の刊行だそうです。この根強い人気は何か? 誠実に日本の為に尽した「誠」の生涯が共感を呼ぶのだろうと思います。近代日本で最も研究され、そして未だに汲めども尽きぬ松陰の魅力は何だろう?例えば全集や研究書でみれば「夏目漱石」や「福澤諭吉」と肩を並べるほどの人気を博しながら、浮ついた松陰人気のイメージがない。難解さがその魅力を保持し続けているのか?
そうではないらしい。憎めない人格的魅力が潜んでいることや、私心のない模範国民的な日本人としての生き方を貫きながら、常に挫折しつつ、それをバネにさらに高揚しようと努力する一人の偉大な庶民としての人物の感覚が果てしない共感を呼び起こさずにはいられないのだろうと思います。
近代日本の魂のふるさととでも言ったらよいのかもしれない。「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」この詩には、えもいわれぬ誠実な、純粋な一人の愛すべき日本人の置き忘れてきた、大切な何かがあるように思えてなりません。
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この記事に対するコメント
吉田松陰の人気は、余り表立って出ないようです。密かに研究している方々が多いことや、「隠れ松陰ファン」が多いことも承知しています。私もそれは肯定出来ることだろうと思います。そういう意味では承知しています。ただ日本中に松陰研究者が「うじゃうじゃいる」という表現は、抽象的で把握が難しく、どの位なのか解らないように思います。私が松陰研究関連の「書」で「エッ」と思いながら読んだのは「岩波書店刊・日本思想大系」の「書目撰定理由」という「解題」に相当する論文を読んだ時、言い知れぬ感情が湧きました。「藤田某」という方が24頁を要して「解説」を試みています。岩波文庫の「吉田松陰」(徳富蘇峰著)の「解説」を書いた「植手通有」さんが、この論文を苦笑を交えた批評文を書いていたのを読んだ記憶があります。藤田さんは松陰の人物を「思想家ではなく、状況に応じて考え、行動した人物」であると云っています。つまり「徹底した状況の人」だというわけです。松陰は極めて日本的な思考様式を持った人物であることは間違いない。元来、ナショナリズムは「外国」との接点を持つ中から醸成されてくるものと思われます。そういう意味では、松陰は極めて初期の日本的のナショナリストだったことは間違いないでしょう。人間、誰しも生い立った家庭、故郷、国を愛する気持ちは自然な感情だろうと思われます。松陰の表現では「独立不羈三千年の大日本」という表現で、北山安世宛の書簡が残されています。「神国」という表現がしばしば散見されますが、儒教的な世界観を強く持った松陰は5年後に誕生した福澤諭吉に比して時代が遥かに前の人との印象を持ちます。二人の全集を見ると「これで5年違いか!」と驚きを禁じえません。ただ、松陰は現代語で言う「一本気」な人物で、信じた道をまっしぐらに突き進むタイプだったのでしょう。間違いない事は、必死で自分の人生を生きた人。そして、松陰に対する毀誉褒貶は自分の預る所ではないと思い定めたのだろうと思う。それゆえ、私心ない人柄が多くのファンを魅了するように思われます。極めて日本人的な日本人だったという表現が相応しい人のように思います。
【2010/08/07 21:36】 URL | 長谷川勤 #- [編集]
5年前、仲間同志4人で「萩の街」を散策旅行しました。紹介してくれた先輩のお陰で「元・萩市教育長」の献身的な案内をしてもらいました。この時の「失敗」と「忘れられない秘話」を書いてみます。失敗は、昼食時に地元のお話が聴ければ・・・との軽い気持ちで、手土産が不十分だったと気がついた時の恥じらいの気持ちです。予想を遥かに超えた歓迎振りに恐縮。「しまった!」と思いながら親切な案内を頂きました。萩市街を一望できる「田床山」の頂上から市街を俯瞰して、名所旧跡を先ずイメージ出来ました。そして順次に見聞。途中、元教育長のお仲間の先生(医師)宅を訪問し、貴重な資料(お土産)まで頂きました。しかし、この歓迎にお礼状を出すのを怠ったこと、未だに赤面です。案内してくれた元教育長にお礼をするのに30日も要してしまいました。
もう一つは、笑える話です。新山口駅前から宇部空港までのタクシーでの会話です。運転手さんが、誇らしげに「山口は総理大臣が一番多く出ている」との話題になりました。そこで、就任順に全て名前を列挙したら、途中で運転手さんが「気に入った!」として、途中でメーターを倒し、特別料金サービスの恩恵に預りました。やはり、郷土の誇りとして総理大臣を数多輩出したことが胸中にあるのでしょう。お陰で仲間達は宇部空港で「祝い酒」に酔いしれて萩旅行を満喫して機上の人になりました。思い出すにつけても、有難い、そして楽しい萩旅行で、今だに良き思い出の会話が交わされます。皆様も一般旅行でなく、知人の伝手があればより有意義な勉強旅行が出来ると思います。美しかった「萩の街と・歓迎の心」が忘れられません。
【2010/07/20 21:51】 URL | 長谷川勤 #- [編集]
OS様 見識に富んだコメントありがとうございます。確かに2世紀半にわたる徳川封建体制の隠れた側面として「教養の時代であった」ご指摘は、私も賛成です。識字率の高さは勿論、江戸期の後半は、藩政府官僚養成のため多くの「藩校」が設置されました。松陰は東北視察旅行で、会津日新館を見学しました。また、自らの毛利藩の藩校たる「明倫館」が嘉永年間に再建、拡張された時にも「意見書」を提出、そこで人材登用を提言していました。反面、福澤諭吉は父が僧侶にさせる心中を忖度して「封建門閥は親の仇」とまで固定した身分制に憤っていますが、「廃藩置県」「日清戦争の勝利」は満腔の喜びををあらわしています。学問が盛んであったことは、「日本の独立維持」へ寄与されたものが多分にあったと思います。今後とも御指導、ご鞭撻よろしくお願い致します。ありがとうございました。
【2010/07/16 12:42】 URL | 長谷川勤 #- [編集]
吉田松陰を生み出した社会的起因を調べていくと日本特有の事情があることに気づく。
アジア諸国が西欧に次々と植民地化されて行く中で、何故日本だけがそうならなかったのかという問いは、しばしば歴史学的見地で取りざたされる。
長崎すらシンガポールのようにはならなかったのは何故か。
明治維新は世界史から見た場合でも非常に珍しい革命であったのであったのは何故か。
もちろん、朝鮮、中国やインドのように封建国家は他にもあったが、日本とそれらの国々とが異なっていたのは、絶対的封建下にあったのと比べ、日本は低い身分の人間でも出世することを許される、超法規的封建体制国家であったことである。
松陰を始め逸材を多く輩出した幕末には、そのことが顕著に現れている。
そうした社会で国防意識を持つ層が多角化したことにも原因のひとつではないだろうか。
江戸時代は多くの知識人を育んだ封建体制があってこそ、始めて成し得る独立体制でもあったのである。
当時の日本は欧米諸国を抜くほどの世界でもトップレベルの識字率を誇る国だった。
それは武家層はもちろんの事、物品の流通を扱う商人層にも文字は必要であり、納税と農家の掌握の為に農民でさえ文字や算術を必要としたのである。
読書層を広域化させ、300年近くの民衆醸造を経たからこそ、幕末の外圧に対して危機感と対応策と思想というものが生み出されていったのだろう。
【2010/07/16 09:38】 URL | O.S #- [編集]
日本中には「松陰研究者」は山程うじゃうじゃいるんだよ。
この程度で感心するのはまだ早いと思うよ。
オレは毎日このページゆっくり眺めさせてもらっている。
ほめるのは長谷川さんの研究の真髄を見抜いてからだよ。

【2010/06/29 16:59】 URL | エセ松陰研究者 #- [編集]
最近ずいぶんいろいろな方がこのコメント欄に書き込まれているのに大変驚きました。
長谷川先生の厚みある研究のホームページは人気があって当然かもしれませんね。
私は松陰先生をもっと勉強したいと思っていますので、このサイトが大変参考になります。
今後もどうぞよろしくお願いします。
【2010/06/29 16:49】 URL | 吉田松陰を勉強中の学生 #- [編集]

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