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「門下生の松陰先生回想」①
【2011/04/12 20:11】 エッセイ
吉田松陰全集第十巻に門下生の回想録が「関係雑纂」としていくつか収載されている。
門下生に、松陰先生はどのような印象を持たれたのか。興味あるところである。
この回想者は松下村塾の塾生で最も長生した人である。昭和14年まで生きた。聞き取りをした方は、定本版松陰全集の編集委員で、松陰研究の第一人者と言われた方である。

渡邊蒿蔵談話 第一 (全集第十巻:関係雑纂収載) 
大正五年七月八日 聞取    安藤紀一(吉田松陰全集定本版編者)

渡邊蒿蔵談話(わたなべこうぞう):(一八四三~一九三九)旧名天野清三郎。松下村塾の門下生。高杉晋作の奇兵隊創設に尽力。慶応三年イギリスに留学して造船術を研究。明治七年帰国し工部省に入る。のち長崎造船所を創設。昭和十四年没。九七歳。松下村塾生としては最も長命。この談話の当時、翁の年齢は七十四歳であった。
渡邊蒿藏




○ 吉田先生は、言語甚だ丁寧にして、村塾に出入りする門人の内、年長けたる者に対しては、大抵「あなた」といはれ、余等如き年少に対しては「おまへ」などいわれたり。
○ 先生の講説は、あまり流暢にはあらず、常に脇差を手より離さず、之れを膝に横たへて端座し、両手にてその両端を押へ、肩を聳かして 元来痩せたる人故に肩の聳ゆるは特に目立つ 講説す。
○ 村塾にては、兵学伝授の事なし。余が兵学に於けるも、先生が余に勧めて、明倫館にて山鹿流を伝授せよと云はれたるにより、館にて伝授せるなり。
○ 松陰先生は罪人なりとて、村塾に往くことを嫌ふ父兄多し。子弟の往くものあれば、読書の稽古ならばよけれども、御政事向の事を議することありては済まぬぞと戒告する程なり。
○ 先生は、教授の外、自己の読書作文等すべて塾にてせられ、飲食起臥、また塾にてせらる。日々の行事時を定めず。その間、運動にとて、一同外に出で、草を取り、又米を搗く等の事あり。諸生弁当持にて来る。弁当を持たぬもの、食事に至りて自宅に帰らんとすれば、半途にて事を中止せしめず、必ず為し了らせ、飯は食はせると云ひて、杉家の台所に往きて、小飯櫃に飯を入れて持ち来らせ、師弟共に食ふ、菜は沢庵漬位なり。杉家にも、これらの事には心遣ひして馳走せし(人をもてなすこと)なり。
○ 先生の座所定まらず、諸生の所に来りて、そこにて教授す。
○ 先生詩文を作らるる太だ早し。唐本(中国から渡来した本)を善く読まれたり。
○ 始めて先生に見え、教を乞ふものに対しては、必ず何の為めに学問するかと問はる。之れに答ふるもの、大抵、どうも書物が読めぬ故に、稽古してよく読めるようになたんといふ。先生乃ち之れに訓へて曰く、学者になってはいかぬ、人は実行が第一である。書物の如きは心掛けさへすれば、実務に服する間には、自然読み得るに至るものなりと。是の実行といふ言は、先生の常に口にする所なり。
○ 玉木文之進は時々村塾に来られたりしが、松陰先生が西洋銃陣(松陰が進取の人であったことがわかる)を主張せらるるには、不同意なりき。先生は諸生を率ゐて、家の傍又は河原などに整列せしめ、竹片を銃の代りにして操銃法を習はしむ。この時は先生自ら之れを号令す。小畑邊(松本村よりやや遠く、萩市の東北部の海岸地帯にある地名)まで往きて演習する時は、先生は謹慎の身なる故往かず。或る時、飯田正伯(長州藩の医師。松陰の兵学門下。松陰刑死後、遺骸の埋葬等に尽力した人)に引率せられて出でたることあり。
○ 先生は己れの罪を隠して言はぬ人にはあらず、己れの罪を明らかに言ひて、人に訓誨せしなり。又決して激言(はげしく言うこと)する人には非ず、おとなしき人なり。
○ 塾の柱に刀痕あり、人これを称して、先生の獄に赴かるる時に、諸生憤激するもの一刀に之れを切り附けたるなりと言ひ伝ふれども、余の知らぬことなるを以て先年野村子爵(野村和作。ただし当人は松陰が獄に赴くとき、即ち安政五年十二月二十六日前後には村塾に居合せなかったので、推量で答えたものであろう。)来萩の時にこれを語り出でて尋ねたるに、子爵も甚だ驚き、曰く、左様なる狂暴の行は先生の平生禁ずる所なれば、決してあるべきに非ず。もし行ふものあらば、先生豈に之れを容さんや、かかる虚事を言ひ伝へてくれては、村塾の面目に関すと云はれたり。
○ 富永有隣は出獄後村塾に寄留せり。大なる男にして片目なり。始めて塾に来れる者、之れを見て松陰先生と誤認せり。(先生漫りに他人に会するを厳禁せらる・・・元村塾生、横山幾太の回想記)
○ 吉田稔丸は賢き人なり。(吉田栄太郎。三無生の一人。元治元年池田屋にて新撰組に襲われて死す。松下村塾の四天王と云われ松陰から期待された。)
○ 久坂と高杉との差は、久坂には誰れも附いて往きたいが、高杉にはどうにもならぬといふ程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく、久坂の方人望多し。
○ 佐世八十郎は、村塾にても余り多くは読書せず。其の父彦七も時々塾に来れり。彦七は剛なる人なり。八十等が先生の罪名を問はんとて当路の人の家を訪問したる時、彦七曰く、周布・井上等の首を取りて来るかと思うたが、それをもせずに、空しく帰りたるかといへり。
○ 伊藤公なども、もとより塾にて読書を学びたれども、自家生活と、公私の務に服せざるべからざる事情のために、長くは在塾するを得ざりしなり。
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