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吉田松陰肖像自賛(跋文)
【2011/04/17 17:11】 エッセイ
前回、掲題の内容での記事を書きました。読んで下さった方から、質問も頂き、私も調べて応えることを通して、結果として勉強になりました。感謝。

今日は「賛」でなく、賛の後に書き添えられている「跋文」について書きます。
「跋文」は、特定の人物に送るための言葉が、おのおの異なっております。また、これを書いた日と最後の署名が、書かれていて、それぞれ異なっていることも確認下さい。 
吉田松陰自賛画像2012.4.13



では、書き下し文ながら紹介してみます。六幅分です。なお、野山獄の司獄であった「福川犀之助」(福川家本)に書き与えたものは、賛は、久坂家本と同文で、跋文はネットで大体が読めますが少し読み切れず、不明な文字があり、時間をかけても調べてみたいと思っています。
コメントを寄せてくれた「坂本さんが」この、福川家ほんのURLを教えてくれたので、これをクリックすると現物写真がみられますので、折角ですから、坂本さんに感謝してここにそのURLを記しておきます。ぜひ、ご覧になってみて下さい。自画像はありませんが、無ければ無いなりに味わいがあるように思えます。




(1) 吉田家本(安政六年五月十七日)
己未五月、吾れ関左の厄あり。時に幕疑深重、復た帰ること期し難し。余因って永訣を以て諸友に告ぐ。諸友謀り、甫無窮をして吾が像を肖(かたどら)しめ、吾れをして自らこれに賛せしむ。顧ふに無窮は吾れを知る者、豈に得だ吾が貌を寫すすのみあらんや。況や吾れの自ら賛するをや。諸友其れ深くこれを蔵せよ。吾れ即(も)し市に磔(たく)せられるとも、此の幅乃ち生色あらん。二十一回猛士藤寅撰幷書

(2) 杉家本(安政六年五月下旬)
己未五月、吾れ執拘せられて関左に送らる。馬角羝乳帰期定めなし。諸友謀りて浦無窮をして吾が像を肖(かたどら)しめ、吾れをして自らこれに賛せしむ。顧ふに無窮は吾れを知る者、豈に得だ吾が貌を寫すすのみあらんや。況や吾れの自ら賛するをや。嗚呼、吾れ去る。諸友此れに対せば、宜しく隔世の想を為すべし。吾れ即(も)し市に磔(たく)せられるとも、此の幅乃ち生色あらん。二十一回猛士藤寅書

(3) 品川家本(安政六年五月廿一日)
思父(しふ)は年少なるも能(よ)く我れを敬することを知る。我れ是を以て深く思父を愛す。
思父無為にして死せば、思父我れに辜(そむ)くと為し、我れ義を害(そこな)いて生きなば、我れ思父に負くと為す。
思父、室に我が像をか懸(ささ)げ、両心相照さば、一幅感深からん。
辜負け(こふ)の二字は、天地豈にこれを容れんや。歳の五月念一。
 二十一回猛士書 
(4) 岡部本(安政六年五月廿一日)
無窮、我れを貌(うつ)し、我れ自ら賛を作りこれに題す。諸友多く絹紙を出して其の幅を存せんことを求む。杜碑、白集は前人其の名を好むこと過甚なることを謗る。然れども李卓吾言えることあり。「吾が死旦夕に在り、猶お名に近づくの累(わずらい)を免れず」と。眞なるかな此の言。吾れの辞せずしてこれに応ずるも亦何ぞ不可ならん。
況や子揖の敦く逼(せま)るを以てするや。時に己未(つちのとひつじ)五月、東行の期近し、吾が字多く得べからざるなり。      二十一回猛士書

(5) 中谷家本(安政六年五月廿四日)
(自賛文)
三分 盧を出づ、諸葛 已んぬるかな、
一身 洛に入る、賈彪 安くに在りや。
心は貫高を師とするも、而も素より立つる名無く、
志は魯連を仰ぐも、 遂に難を釈くの才に乏し。
読書 功無し、 朴學三十年、
滅賊 計を失す、 猛気二十一回。
人は狂頑と譏り、 郷党 衆く容れず、
見は家國に許し、死生 吾久しく斉うせり。
至誠にして動かざるは、古より未だ之れ有らず、
古人 及ぶこと難く、聖賢 敢へて追陪せん。 

  ※ 此の賛の最後の行のみ、他の賛と弱冠言葉が微妙に異なっている。
※ そして、跋文では、もう七通も書いたので、嫌気がさした(疲れた?)とも言っている。
  (跋文)
予人の為に此の賛を書す。凡そ七通。今すでに之れを厭う。賓卿(中谷正亮)復たもって見んことを迫る。嗚呼、賓卿我れにおいて最旧(の友)なり。
それ辞すべけんや。将に之を発せんとするの前夕(五月二十四日)
二十一回猛士寅書

(6) 久坂家本(日にち不明)
※自賛は、中谷本と同文である。


實甫、無窮をして清狂の遺像を模せしめて成る。又、吾が像の賛を作りえこれに配せんと欲し、重ねて無窮を煩はして吾れに及ぶ。夫れ清狂は棺已に蓋はれ、論已に定まれり。吾れは大難前にあるも、利鈍未だ観ず、安んぞ遽(にわか)に清狂の対たるを得んや。然も吾が名節に玷あらば、歿してが亡友に負き、生きては存友に愧(は)づ。是れを以て逼らるるは、我れを激すること深し。我れ得て辞せざるなり。
己未五月                     二十一回猛士藤寅書


以上の六幅が「自賛」に「跋文」が書かれているものである。跋文そのものも、日にち、署名の文字等、皆それぞれ微妙に違いがある。よく注意して観察しないと見逃されやすいので要注意である。
さて、
この自賛肖像は「東行前日記」によると門人久坂玄瑞の発議で同門の松浦松洞(亀太郎)無窮に描かせ、小田村伊之助(士毅)のすすめで、松陰の賛を求めて書かれたもので、当時の松陰の心境をよく表現している。また、松陰の人生を圧縮して表現したともいえよう。
五月十六日はら萩出発の前日二十四日夕刻まで賛を入れたもので約八、九通である。であるが(註1)今日七幅までは所在が明らかになっている。

吉田家本は、萩の松陰神社に所蔵(今は山口県文書館に)されている、杉家本とともに家に遺したもので、賛や跋文、肖像に多少の異同がある。吉田家本の肖像の姿勢は趺座で寛いだ感じを与えている。
杉家本は普通「神社本」とも呼ばれ、杉家に遺したものであるが、他は門人や友人の求めによって与えられたものである。ただ増野徳民に与えられたとされているものは画像だけのもので、後に久坂玄瑞が徳民の求めによって吉田家本で賛と跋文をいれたとされている。

その他、萩市立明倫小学校所蔵の画像のない福川犀之助にあたえた一幅がある。松陰が最期に賛を入れた者は中谷正亮に与えた幅である。この跋文はこれまで七通賛を入れたが、今はこれを書くのに厭いた。然し旧友の中谷賓卿(正亮)が書いてくれというので、ついに書いて与えることにした。萩を立つ前日の夕刻であると記してある。「今已厭之」とした点は岡部家本跋から予想すると、たぶん肖像に自賛することが名を好むに似ていると憂えたためであろう。

なお、肖像の作者松浦無窮は松洞と号し、松陰と同村の魚商の家に生まれた。幼少から絵事を好み、羽様西涯・織田海僊等について画法を学び、安政三年松陰の門に入り、増野徳民、吉田栄太郎と共に松下村塾の基礎を作った。常に国史を読み、忠孝義烈の人物を求めて遺像を写そうと意図したが、松陰の指導もあって安政四年七月頃から現存の偉人の面を貌すことを始めた。松陰刑死後も師の志を継ぎ、塾生等と共に国事に奔走していたが、文久二年(1862)四月十三日京都粟田山に於て自刃した。二十六歳。
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この記事に対するコメント
この「自賛肖像」の解説文の出典を記すのを怠りました。山口県教育会の「維新の先覚、吉田松陰」159頁にこの解説が書かれています。坂本さんからのコメントを頂いて、調べているうちに、いろいろなことが理解できました。吉田家本と久坂家本は、脇差をさしていない。跋文を丁寧に読んでいくと、何家本かがわかるようになりました。私は、一昨年秋、明治神宮で展示会があったとき「品川家本」は実物を見ました。福川家本もネットでなく、実物を見てみたい気持ちに駆られています。再度、萩市に行きたい思いがしています。
【2011/04/18 14:25】 URL | 長谷川勤 #- [編集]

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