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西遊日記②
【2011/04/19 09:04】 エッセイ
前回で、松陰が独立師範になって鎮西に修業の旅(江戸期はこれを遊學と呼称した)に出て、葉山佐内の下で修業したことを書きました。
今日は、この内容についてもう少し深く語りたいと思う。
財団法人・松風会刊行の『吉田松陰日録』という、松陰研究に大変有用な本があります。
この本は、松陰の生涯を、日時を追って記録した大変便利で、役立つ本である。相当の労力を要して刊行されたものと思う。松陰全集から可能な限りの、行動記録を追って記したものである。



さて、松陰全集の第九巻・34頁に松陰が長崎で、オランダ軍艦に乗船して、詳しく観察した記録がある。嘉永3年9月11日の記録。当日、晴れ。大木藤十郎を訪ふ。蘭船に乗り、上層・第二層を見る。上層に砲六門あり、二層には銅銭箱を多く積む。蘭人酒と糕(こなもち)をだす。脚船二あり、一は船上に懸け、一は水上に浮ぶ。船傍に升降の梯子あり。是れ福田耕作(幕府の長崎奉行所役人)並びに通辞某々の誘引に依りて、是れを見ることを得たり。

この記述は、山鹿流兵学師範として、毛利藩の軍学(今の防衛省に近い)教授の立場での観察だから、他人事では見ていない。江戸期は、藩=国の認識であったが、松陰はこれを見ていたから、3年後のペリーの軍艦を浦賀の堤の上から、遠距離観察して詳しく読み取れたのである。この遊學は沢山の成果を得たと、前回書いたが、これもその成果の一つである。軍艦の何たるかを見聞していたからこそ、他の人々と違う観察眼で「検証」したのである。ペリー来航を「国難」と捉えた所以である。ここが、松陰の洞察力の素晴らしさである。後年「今、天下はいかなる時ぞや?」と松下村塾記に書いたことを想起されたい。

実は、翌年の十二月に、東北旅行に過所(かしょ)手形の発行を待たずに出発した背景に、西洋兵學への関心と日本古来の兵学との「彼我の力量比較」が、松陰の内心では出来ていて、承知の上の脱藩だったのである。全集第七巻・116頁にその覚悟と思える一文がある。
嘉永四年十二月十二日の、兄・梅太郎宛ての書簡に曰く「官(かん)倘(も)し、允(ゆる)さざれば吾れ必ず亡命せん。仮令今日君親に負(そむ)くとも、後来決して國と家とに負かじ。」・・・・・・既にして佐世大夫(この人は、藩の上級役人)に説く。大夫曰く、「且(しばら)く手元(長州藩の役職)と議せん」と。辛亥(嘉永四年)朧月(12月)十二日 吉田大次郎  とある。つまり、思いつきの脱藩ではなかったのである。

鎮西遊学がもつ、松陰における人生一大事の経験となったのであった。まだまだ、この遊学での成果は続く。次回に、続きを書きたい。
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