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『浮世の有様』に見る「文政十年の詔」
【2011/04/19 17:30】 エッセイ
昨年8月20日の記事で「文政十年の詔」について書きました。これの当時の出来事や関連した記事が掲載された、大変珍しい本がありますので、今日はこれを紹介します。



1、 文政十年の詔とは
松陰が、幼児に兄・梅太郎と一緒に「青空学校」の田畑で、父・百合之助から教えられた話である。
文政十年二月、仁孝天皇が将軍家斉を太政大臣に任じ、世子家慶を従一位に任じた詔書に対して、京都へ参内せずに江戸城でこの詔を受けた無礼を武臣の跋扈、王室の式微と捉えて悲憤慷慨したことの話である。(この話は、玖村敏雄先生と海原徹先生の吉田松陰にいずれも詳しく記述されている)。
敬神家にして、尊王家の父はこの話を幼い兄弟にきかせた。

安政六年五月二十三日、幕府に呼び出されて江戸へ行くにあたって『家大人に別れ奉る』と題して漢詩を父宛に書いた。そこに次の言葉がある(一部抜粋文)。「耳存文政十年の詔  口熟秋洲一首文」と、これは読み下すとこうなる。「耳には存す 文政十年の詔、口には熟す 秋洲(日本の意味:神国由来)一首の文」となる。松陰全集第九巻:東行前日記、565頁)この時、松陰数えで30歳である。

江戸から生きて帰れない覚悟で、父にお別れの書を贈ったのである。非常に情感の籠った親への感謝の漢文であるが、そこで幼児の頃、父上から聞かされたこの話は、30歳の今も、諳んじることが出来るといっている。真に松陰は父親を尊敬していたのだ。



2、 大正六年刊行の『浮世の有様』という、国史研究會発行の本である。定價金一圓二十銭となっている。これは、文化より文政・天保を経て弘化年中に至る、天変・地異・人事を収載している本である。
その77頁に『文政十丁亥年三月十八日御觸の寫』が掲載されている。面白いので原文を記す。

 公方様太政大臣御昇進
  詔書宣旨御頂戴、内府様従一位之御位御頂戴、御作法無残處相済候間(旨カ)、江戸ゟ被仰下候條、恐悦可奉存候。此皆町中可觸知者也。
   同五月
御昇進に付、御役附御位階
御老中御掛別段御使    青山下野守様
御若年寄御用掛      増山河内守様
以下、略
〆 
於御本丸御馳走方
御勅使方         溝口伯耆守様
院使方          秋月長門守様
以下、略

帝都ゟ御下向の次第
勅使           鷹司様
             広橋様
             甘露寺様

右之外、多分御紋付有之候得共略す。
御別段御上使       青山下野守様
 右拝賀之節、津軽越中守、近衛様ゟ拝領之由にて、轅に乗って出られしにぞ、御咎を蒙り閉門被仰付家老・用人・留守居其外役掛り之者五六人切腹をなす。此事に付、種々の風説ありといへどもこれを略す。

大仰に、勅使を迎え、ご祝儀の時に、津軽の殿様が轅(えん:牛馬に引かせる乗りもの)で、無礼な格好で出てきたことが咎められ閉門となり、家老以下が切腹させられたと書いてある。家斉の特別な名誉の拝受(これとて上京して参内しない無礼)を江戸城で受けた時の模様だが、作法を心得ない津軽の殿様の非礼に対して、閉門の御咎めをうけ、更に高級家臣が切腹となる、生々しい「有様」である。
江戸期の、笑うに笑えない「珍場面」である。将軍家斉の太政大臣は、朝廷からはすれば破格の昇進をさせたのである。普通は将軍といえど、内大臣程度であった。

※特殊文字説明
 ①ゟ=より と読みます。
 ②轅=えん、 または、おんと讀む。
    漢和辞典によると、ながえ。大車の両側から前方へ突き出している二本の棒。その先に「くつわ」をつけ、牛馬に引かせる。(多分、珍妙な出で立ちの乗り物)。   
           
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