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西遊日記③
【2011/04/19 19:30】 エッセイ
松陰の生涯で、大きな意味を持った「鎮西遊学」、この修業の旅は、松陰の人生行路を大旋回させる。まず、松陰が下田での密航に同伴した金子重之介に語った、松陰を知るのに酔う言葉がある。松陰全集第3巻:「講孟余話」401頁に「余嘗て亡友澁木生の為めに、學業の次序を語りて云はく、地を離れて人なく、人を離れて事なし、人事を論ずる者は地理より始むと」。この言葉通り、長崎へ行く途次での道中、帰路の佐賀から肥後の道中でのお国ぶりの観察を怠っていない。



後の東北日記でも、道中での人や政治ぶりを洞察しながらの旅の記述があるように、松陰の観察力は鋭かった。
長崎、平戸での滞在記は、「読書記」の日記かなと思わせる。よく本を読んだのがわかる。人物観察もしっかりやっている。嘉永3年(1850)9月14日、葉山佐内に逢う。傅収録及びその著はす(佐内)所の邊備摘案を借り、摘案を夜間謄寫す。とある、この日から猛勉強の日々。翌日に老師陽明学を好み、深く一齋先生を尊信し、言一齋の事に及べば、必ず其の傍に在るが如し、と記している。17日、宿に帰り傅習録を讀む、因って抄す。

21日、晴。傅習録の示弟立志説・訓蒙大意・教約を讀みて、後巻を釈(す)つること能はず。23日も傅習録を讀む。28日雨、半晴。○文編政以治民 民為政本云々。10月13日晴。文(田村文左衛門:平戸藩士)より「配所残筆」を借る。平戸は甚だ険阻崎嶇の地なり、町中少し平坦なり。松陰は読み終わると、卒業と記す。平戸の師は葉山佐内と、山鹿萬助だが、本心は葉山に学びたいのであった。
伝習禄


平戸滞在50日で80冊もの読書。特に隣国清の情報、アヘン戦争始末等世界に目が向く。再び長崎に戻り、以後肥前へ行く。清正廟に「願掛け」もこの時。そして宮部鼎蔵等とあって後、佐賀へ。ここで弘道館を訪問。副島種臣の兄枝吉神陽とも会う。この枝吉神陽は「義祭同盟」を結成して、勤皇の志士を育成した人物。長州の吉田松陰といった所である。こうして8月25日に萩を立ってから4か月余り後の大晦日に帰宅。遊学の成果は大なるものがあった。そして、長崎の書物が実は江戸から取り寄せた情報から、江戸行きに胸をときめかせ、翌年参勤交代に伴う形で、問題の江戸修業の日々となるのである。

あれも、これも修業に忙しく、いずれの学問も「一骨折れ可申」の苦行で「夫故方寸錯乱如何ぞ哉」の状態。そして、他国の知人から「お国の人(長州)は日本の歴史に暗い」といわれるも、多忙でこれを克服出来ず。脱藩後の水戸で日本の歴史の重要さを知らしめられる。脱藩の罰則を待罪中に、猛烈に日本の歴史を勉強することになる。このことは昨年7月5日の「睡余事録」に書いた。
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