長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

小説『花の生涯』の松陰の最期をめぐって
【2011/05/01 06:31】 エッセイ
『花の生涯』 NHK第一回大河ドラマ

掲題の小説がある。舟橋聖一の作品であるが、これはNHKの大河ドラマの第一回(昭和38年)で放映された。以後、今日まで、この大河ドラマは日曜日の看板番組ともいえる息の長いシリーズとなっている。昨年(平成22年)福山雅治演じる「坂本竜馬」が話題をよんだのは、記憶に新しいところである。
この「花の生涯」の原作は昭和27年7月10日から、翌28年8月23日までの408回毎日新聞夕刊に連載された。(日本歴史文学館26、花の生涯483頁、「たか女覚書に収載」

この小説の主人公は、安政の大獄を指揮したことで有名な幕府大老「井伊直弼」の生涯である。井伊家は徳川治世期の譜代大名の筆頭で、大老を輩出できる名門の家柄であった。
主人公の直弼は文化12年生まれで、井伊家第11代当主の直中の14男であるから、世子となるのは閉ざされていると本人も当然のように考えていた。因みに直中は名君として名高い。しかし、運命は以外な展開で直弼を藩主にする。「埋木の舎」と称した部屋住みの生活を過ごしていたが、世子だった兄の死により、嘉永3年に36歳で彦根35万石を継ぎ13代藩主になる。14男が世子となるというまことに珍しい運命であった。彼は吉田松陰と同じく「山鹿流の免許皆伝」であった。これが運命のいたずらのような関係を齎す。
舟橋聖一



堀田正睦の後任として幕閣の責任者となった直弼は、ハリスとの通商条約交渉が大詰めを迎えていたために、交渉役の岩瀬忠震に時間切れの場合は、已むを得ないとの言質を与える。そうしてこれが「無断勅許での調印」となった。時に、安政五年六月十九日。これがもう一方の大きな政治問題であった、13代将軍継嗣問題の解決とともに、直弼の専断との非難を浴びて世論は沸騰し、水戸、尾張、越前等の名門大名が直弼糾弾の為に不時登城(押しかけ登城)する。名門大名と言えど、江戸城に登城する日は定められていあて、これ以外に許可なく登城することは禁じられていた。当日は、直弼を詰って、問責したものの、案の定、後日将軍「家定」の命令の形をとって、謹慎、隠居等の処分を受けてしまう。井伊直弼の巧妙な幕府権力行使のしっぺ返しであった。
井伊直弼24.3.25


萩の松下村塾にて教育事業に邁進していた吉田松陰は、天皇の裁可なき条約調印を江戸にいる門下生からの至急便でこの事件を知る。ここから俄然松陰の立場はラディカルになり、松下村塾は完全に政治結社化する。ついに幕政批判を展開、当時の勤皇主義者たちと共に幕府政治に激しい批判の書を著述する。安政五年七月十五日に書いた『大義を議す』(戊午幽室文稿:全集第四巻、372頁)を藩主宛に提出した。有名な「入江杉蔵」に與えた「送序」の『杉蔵往け。月白く風邪清し、飄然馬に上りて、三百程、十数日、酒も飲むべし、詩も賦すべし。今日の事誠に急なり・・・・・・』僅か三日後であった。

孝明天皇は激しい攘夷主義者であって、このペリー来航以来の国情を憂えており、幕府に外交委任をしていながら、前例を破って「水戸藩」に勅諚を出す。(戊午の密勅)幕府より二日早めて出された、異例の勅語であった。此れで幕府の面目丸つぶれと怒った井伊大老は、幕府の威信をかけて弾圧政策の号令を出す。腹心の老中以下が京都の手入れを行い、策動者の探索、処罰に乗り出す。此の中に、吉田松陰もブラックリストの一人として直弼に報告されていた。

「長州藩・吉田寅次郎と申すもの、力量もこれあり悪謀の働き抜群の由」との探査報告である。松陰はこの時、幕府から睨まれるのを恐れていた藩の政府の処置で二度目の「野山獄」収監中であった。将軍継嗣問題の裏で暗躍しているのは、新宮の「水野忠央」に違いないと考えた松陰は、暗殺指令を門下生に出す。一方で志士の弾圧に専横を奮っている井伊直弼を暗殺計画が密かに水戸と薩摩で進行。これを知った松陰は京都手入れの老中「間部詮勝」を長州藩(勤皇藩として)は暗殺しようと藩の重役に武器弾薬貸与の申し出をする。困窮した藩政府は「寅次郎の学術純ならず」として野山獄へ再び収監してしまう。そして安政六年五月、幕府の召喚命令が松陰に伝えられた。嫌疑は梅田雲濱の自白からであったが、幕府評定所にての松陰の説明で解決したが、奉行の誘導尋問から老中暗殺計画を自白、これが命取りとなる。安政六年十月二十七日処刑。越前の橋本左内はこの20日前に処刑されていた。
船橋聖一


ここで、本題の舟橋聖一の小説の取材根拠を巡って、運命的な批判が噴出することになる。『花の生涯』408頁の記述をまず下記する。

頼三樹三郎の処刑は、橋本に続いた。その判決理由に拠れば、
河原町三条上ル夷町入ル借家 儒者頼三樹三郎
右の者、外夷海防の儀につき、猥りに浪人儒者と御政事にかかり候国家の重事を議論に及び、容易ならざる儀を申し唱へ、人身惑乱いたし、天下の擾乱をかもし候姿に至り、公儀を恐れざる致し方、右始末不届きに付き、死罪。
 
とあるのみで、まことに簡単な判決理由書と云わなければならない。
―――次いで同月二十七日、第三回目の処分として、吉田寅次郎の死罪が決定した。その時、遠島二名、重追放一名、中追放二名、永押込二名、押込七名、江戸構い一名、国許永押込八名等が発表された。
橋本や頼は、ともかく一死を覚悟していたので、処刑は比較的容易に行われたが、吉田は死罪はおろか、遠島さえも思わず、重ければ他家預け位に楽観していたので、この宣告には、不満、不服、不可解の限りを感じ、最後まで、反抗的態度を緩めなかった。
 これまでの書に拠ると、吉田や橋本は、その死に臨むや、神色自若であったと書いてあるのが普通である。然しこれは、吉田や橋本を英雄として、崇拝するのあまりだ。
伝えられる吉田橋本は、ややもすると神様に地下からんとしているが、実際はそれほどでもなかったようだ。人間、死に臨んで、従容たれというほど、難題はないだろう。
時に松陰は三十歳。左内は二十六歳。
左内2012.3.31

二人とも、脂の乗った青春時代である。理想に漲り、意慾に炎え、生活力も旺盛であるのに、突然、極刑を宣告されたのであるから、いくら浪曼的性格の所有者であっても、簡単に自己の死を肯定するわけにはいかなかったに相違ない。
殊に、吉田は、この裁判には不服であり、獄吏によって、勝手に捏造された口書は、悉く虚偽なりとした位だから、死罪の判決が下るや、顔面蒼白、口角より泡を吐いて、猛然と抗議した。
伊勢の人、世古格太郎の著わしたものに拠ると、「吉田も斯く死刑に処せらるべしとは思わざりしにや、彼縛らるる時、誠に気息荒々しく、切歯して、実に無念の顔色なりき」と、その目撃したところを、述べている。
吉田は評定所のまン中に、あばれ出し、大声でその刑の不当を鳴らしたが、同心十人程に取っておさえられた。高手小手縦横に搦められ、上衣は破れて、下帯一本のまま、曳き立てられた。
斯くて一旦牢へ下されたが、同日の四ツ時には、はやくも刑の執行が終わっている。死体は小塚原へ棄てられた。桂小五郎や伊藤俊輔(のちの博文)が、かけつけたときは、四斗桶の中に、その死体が投げこまれてあったと云う。 惣髪は乱れて、顔にかぶさり、流血は淋漓、その上、身体には寸衣の覆うところもない、まるで裸であった。
桂や伊藤は、その惨状に、涙なき能わなかったが、ともかく、髪を束ね、水を以て血を洗い、且つ、首体を継ごうとすると、傍らの獄吏は、「重刑人の死屍は、他日検屍もあることだから、首体は別にしておいて貰いたい。若し接首の事実が露見すると、それこそ、こちとらの首が危い」と云って、許さなかった。
已むを得ず、桂は襦袢をぬいで、松陰の裸体を覆い、伊藤は帯をといて、これを結んだということだ。

以上、二頁にわたり、全文転記した。この記述した内容が、問題であるとして原作者は山口県出身のある大物人物達から呼び出され、世古の典拠が真実を伝えていないのに十分な資料検討せず、面白おかしく書いたとして、問責されたという。確かに、吉田松陰全集には世古格太郎の見聞記は掲載されている。全集第十巻312頁である。「関係雑纂」としていくつかの松陰の最後の様子が書かれている。作者も云っているように、死に臨んで神色自若としていたのが普通であった、それを小説という歴史学者の「資料との整合性、史料批判」を樹分に行って実証性を重んじて叙述するのと異なるが、それは小説家の自由である。但し、一般読者はそれを真実または事実として本当の話として受け取ってしまう。ここが問題なのだ。
花の生涯
関連記事
スポンサーサイト
この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kinnhase.blog119.fc2.com/tb.php/116-8be884cb
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR