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松下村塾①
【2011/05/07 20:15】 エッセイ
吉田松陰と云えば、イコール 「松下村塾」とイメージされて、幕末の「教育者」を連想させるが、それは松陰と云う人物の僅か30年という短い人生での、「修己治人」の事業であったと云うこともできる。己に厳しく、門下生には常に「師弟同道」を念頭に置き、門弟の成長を願って、優しく「諸友」として遇し、時には厳しく「人の道」を研鑽探究したのである。この成果が、人間教育として大きな足跡を残すことになる。将に「松陰」という人格のなせる「感化力」が時代を超えて、今日でも共感を呼ぶ所以である。

基本的には漢学を柱としながらも、時代性を鋭く意識した「時務論」なども一緒になって勉強した。だから「学問の為の学問を」を厳しく排除し、「実学」を追及する姿勢を常に持っていた。『士規七則』に言うところの「志を立てて以て万事の源と為す」や、『松下村塾記』に書かれた「学は人たる所以を学ぶなり」などの名言を残した一方で、「今、天下は如何なる時ぞや」と問いかけることも忘れなかった。
これらは、松陰の人生観、世界観、学問観の一端を垣間見せてくれると思うのである。



実は、吉田松陰=松下村塾 と直結して考えると、間違えやすい。なぜか? それは、「松下村塾」なる「私塾」は天保13年に、松陰の叔父(父の末弟)が自宅で近隣の青少年を相手に学問の手ほどきするために開設されたものである。この開設者は、幼児の松陰兄弟を教育したのだが、儒学に秀で、自らは「山鹿流の免許皆伝」であった。玉木文之進という。

「三つ子の魂百までも」といわれるように、松陰が自分の人生に於て強靭な気力に支えられて、幾多の困難にもめげず努力、前進を常に実践して、徳富蘇峰の云う「蹉跌と失敗の人生行路」ではあったかもしれないが、「修己治人」をめざして、ひたすら修業に励むと同時に、その生き様、人生観が門下生に「以心伝心」で伝わったからに相違ない。そこに官学(毛利藩では明倫館)の「朱子学」に拘束された治者階級養成機関と異なる「人間教育」の素晴らしさがあった。

これから、何回かにわたって「松下村塾」の記事を書いてみたい。
開設者の玉木文之進が、公務に再度就いたとき、一時、間をおいて松陰が外叔と呼ぶ「久保五郎左衛門」がこの塾名を継いだが、内容は寺子屋風であったという。それを継いだのが吉田松陰である。このようないきさつがあるので、正しくいえば松陰は、松下村塾の第三代目の主催者ということになるのである。また、それがいわゆる人口に膾炙した「松下村塾」なのである。開始時期は安政三年9月の「松下村塾記」を書いた頃からとするのが一般的である。開設日が明確に何年何月からと、線引きが出来ないのは免獄後の杉家の幽室での家族、親族を相手に講義したのを漏れ聞いた若者たちが自然発生的に、近隣から学びたいとの来訪者が増加した延長線上にあるからである。強いて言えば「8畳」の塾舎誕生からであるが、これは杉家の幽室ででは手狭になったためである。
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