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松下村塾②
【2011/05/09 06:20】 エッセイ
松下村塾の外観については、日本全国に模築したものが六ヶ所もあると言う記事を4月26日に書いた。根強い「松陰人気」というか、支持者、ファンがそれだけ多いということの、一つの証左になるものと思って間違いない。しかも、世代を超えて、息の長い人気である。何故そんなに松陰ファンが多いのか?
これは興味ある疑問である。思うに、松陰を知る者にとっては、真剣に自分の人生を生き抜いたということが、日本人のお手本になると受け止める方が多いものと私は推測する。
「最も日本人らしい日本人」として、松陰を尊崇する人々、とりわけ教育に関心ある方々にとっては魅力ある日本人の典型として印象されるのかも知れない。

松陰の立志実践教育


さて、本日は第二回目の松下村塾である。今日から中味に立ち入って考えてみたいと思う。
先ず、松陰の思想なり考え方が江戸期に在って大変に先進的であったということが出来る。
江戸期の教育機関は大雑把に言って①藩校 ②郷校 ③私塾 ④寺子屋があった。①と②は藩で経営するか否かの違いと考えてよいだろう。藩校とは、江戸時代の中期以降に急速に増加する「藩吏」の養成機関と考えてよい。武士は、本来戦闘のために存在したが、江戸の中期以降は戦闘の必要性がなくなる。つまり「元和偃武」以降は、武士の必要性は、「戦闘のための存在から治者」と変容するのである。つまり、戦うことがなくなった、単なる治者階級の名を語る消費者となった。藩の統治に必要な人数、人材はその重要度が、年々縮小していく。松陰が「泰平久しく、士道が衰微」してしまっている、と嘆いた武士の姿である。それが証拠に、ペリーが来航して以来、「すわ、一大事!」と、武具を買いあさった逸話があり、四六時中、戦いに備える、武具を持っていなかった実態が判明した。

こうした、時代に在って松陰は人間の在り方を問うことになる。身分世襲性の弊害を見抜いていたのである。従って、人材登用が彼の持論であった。いくつかの上書にもそれが提案の形で書かれている。人材養成や育成は、世襲制からは望めない。能力が問われないことに「世襲制の怠慢」を洞察していたのである。松陰に在っては「志」を持たない武士は勿論、人間として疑問視されたのである。だから、松下村塾の特徴の第一は、身分を問わず「志」があるか否かがまず問われた。ここに、江戸期における画期的な学塾として有名になった理由がある。松陰にとって「志」があるか無いかが第一に問われた。それゆえに、「何のために学問するか?」と等しく問うた。

足軽、中間はいくら能力があっても、そのままであった。福澤諭吉がその「福翁自伝」でいみじくも歯ぎしりして「封建門閥は親の仇」と云った通りであった。それを松陰は、人材発掘に主眼を置いた教育をした。つまり、人それぞれに個性、能力、資質がある。これを引き出して「世の為、人の為」に潜在能力を発揮させることこそ、教育であるとの考え方があった。そして、それは「野山獄」での獄中勉強会で実証済みであった。「人賢愚ありとも、志いかんである!」が松陰の信念であった。
このシリーズは長く続きます。
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