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松下村塾③
【2011/05/15 11:02】 エッセイ
松陰の「松下村塾」は、日本の教育史上極めて特異な光彩を放っている。
一介の浪人、而も国事犯の人間が、ある種の「暇つぶし」的に促されて実践したことの延長線上に、その「塾」があったからである。
したがって、全国的には勿論、藩として公認するまでには時間を要したのであった。私塾とは江戸期に在っては、これといった基準があったわけではない。教育の目的や、学問の本質的な意義が問われたわけでもない。このようなことから「学問とは何か?」、「何の為にするか?」といった基本的な問いは発せられないまま運営されていた。
松下村塾 


それが証拠に、塾生の思い出の談話を聞いても、「近隣ではすこぶる評判がよい」から、何か就職に役立つのではないか?といった素朴な思い入れで学びの希望をもって、応募したのであった。勿論、松陰は普通人では考えられない、異常ともいえる学問、人の道を求道した。それが、事なかれ主義の一般人にとっては、「危険人物」の塾で学ぶことに危惧を覚えたのであった。それが、具体的には松陰が東送される前に書いた「自賛自画像」に書きこんだように「人は狂頑と譏り、郷党衆(おお)く容れず」という、松陰の正直な気持ちとなったのであった。反面、渡邊蒿蔵の思い出話のように、当時は「松陰先生」の評判がすこぶる良く、就職もまた便宜が得られるとさえ思う人々がいたのも事実である。

今日の国会を思い浮かべていただきたい。「全会一致」で立法化されることは稀にしかない。
松陰もそういった支持しない人々が多くいたことは百も承知であった。つまり考える次元が違うのである。自分が傷つくことへの危惧を、子供に伝えたのであって、それは本質的には「今」と変わらない。「無事是名馬」という言葉を、そのまま表面的に受け止めたら子々孫々に悪影響を及ぼすことになる。松陰は、そんな小さなことに拘泥せず、日本民族の存亡という受け止め方をしたことから、自分のことはさて置いて信念に従って行動したのである。それが、偶々理解者のもとで「何ら愧る事ない」教育となったのである。

以前に書いた、「松下村塾記」をもう一度再読してみて頂きたい。松陰は、この建学宣言ともいうべき論文で「学とは人たる所以を学ぶなり」と、明快に宣言している。
そして「学者になってはいかぬ、人は実行が大事」であると入塾希望者に己の信念を語った。「論語読みの論語知らず」という、ことを否定したのである。則ち、学問の効用を説いたのである。そうであるから、見台や教壇を設けず、「師弟同道」を信念として、人物育成に邁進したのである。門弟が信頼したのは、その率先垂範の「人の倫」を歩む姿であった。

そこに「感化力」が結果として付随してきたのであって、それを目的にしたのではなかったということである。つまり、「人間教育」にこそ教育の本質を見出したのは、自身の勉学体験から導き出されたのである。多くの門弟が遊学する時に「送序」なる名文を書き与えて激励したのは、単なる知識伝達をもって教育の使命が果たせるという、浅薄な考え方でなかったことの証左である。「杉蔵往け!月白く風清し、飄然馬に乗(またがり)て、三百程、十数日、酒も飲むべし、詩も賦すべし。今日の事誠に急なり。・・・」・・・、このような激励をする教師が果して現存するか?尊敬する「師」からこのような贈る言葉をもらって発奮しない人物がいるわけはない。ここに、松陰の偽りのない人間教育の真骨頂があったと思うのである。
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