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吉田松陰と西郷隆盛
【2011/05/18 21:34】 エッセイ
岩波文庫に「西郷南洲翁遺訓」(山田済斎編)(1939年2月2日第一刷発行)がある。。全編で108頁の薄い本である。その105頁に「書後の辞」と題してこれが刊行された経緯が書かれている。比較的短文なので記して見る。
「遺訓の由来は、明治三年荘内候の公子酒井忠篤・忠實を初め、藩士菅實秀・三矢藤太郎・石川静正等数人来たって薩に寓し、屡々翁に就いて教を乞ふ。已に帰り、其聞く所を纂めて一書となし、之を同志に頒ちしによ起る。明治23年三矢藤太郎之を荘内に印行し「南洲翁遺訓」と題す、是れ遺訓印行の始か。29年佐賀の人片淵塚琢再び之を東京にて板行し、「西郷南洲先生遺訓」と題す。爾来有志者往々之を傅寫し印刷して珍惜愛誦せり」と。 
西郷隆盛


なぜ、このようなことが行われたかについてである。簡単に言えば、荘内藩の人々が戊辰戦争の時に受けた西郷の姿勢、態度に感じ入ってしまったのである。その結果「西郷信者」となったのである。事情は、次のようなものであった。戊辰戦争で敗者となった荘内藩に対し、官軍の総大将であった西郷隆盛は城下に兵を進駐させる時、みずからの兵士の刀を取り上げたのである。その反面、敗者側の刀はそのまま帯刀を許したのであった。荘内藩は譜代中の譜代大名である酒井家であり、三河武士の精神を伝える「武士道」を誇り高いものとしていた。西郷隆盛もこと「武士道」の体現者として、敵とはいえ荘内藩の誇りを理解していたうえでの行動であった。即ち、荘内藩は最後の最後まで徳川家の為に戦ったことへの深い理解があったのである。

それゆえ、参謀の黒田清隆に対し、敗者として扱わせず、丁重なる態度で寓した。荘内藩はどちらが勝者なのかと戸惑ったと言い伝えられている。この黒田の態度から、西郷の胸中を知った荘内藩は藩を挙げて西郷に対し尊崇の念を抱いた。幕末期に三田の薩摩藩邸を焼き討ちにした荘内藩である。仇敵の関係でもあったのに、この西郷の「武士道」的態度に尊敬、信頼の念を抱く。戊辰戦争後、荘内藩は有望な若者たちが私淑する西郷の下に書生として直接教えを請うたのであった。その教えから学んだ成果がこの「西郷南洲翁遺訓」に纏められたというわけである。敵軍をして尊敬させてしまう西郷の度量の大きさというものである。あるいは誠実さといってよいだろう。

実はあまり知られていないが、西郷は二十代のころ陽明学を学んでいる。吉田松陰も平戸で陽明学と出会っている。松陰は独学に近い学びであったが、西郷は松陰以上に陽明学を信奉したようだ。元来、陽明学は知行合一を理念とし、知識を世人に役立てようと行動する在り方に、西郷と松陰の人生観の共通性が見られるのである。松陰の思いやりは松下村塾の塾生に対する接し方でもわかるように、それが感化力の原点ともいえるものとなった。単なる武士の情けと次元を異にするのであって、西郷の荘内藩への態度にもそれを見ることが出来る。しかも、名利を求めない生き方も松陰と西郷は共通する。吉田松陰が安政六年初頭、江戸の情勢を知らせてくる門下生の情勢観望論に対して、意見を異にした時、「江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違うなり。其の別れる所は、僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」、と断定。此の時、松陰は野山獄に再度の収監中であった。

西郷も、功業への思いより忠義の思いが強かったと思える。西郷の陽明学は藩儒・伊藤茂右衛門に学び、大塩平八郎や春日潜庵を高く評価していたようだ。この二者は陽明学者でもある。明治維新の陰に陽明学ありと云われる所以でもある。因みに山田方谷、大塩平八郎、河井継之助、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、春日潜庵などは皆、陽明学信奉者である。西郷が揮毫を頼まれると「敬天愛人」と書したのは有名である。松陰が松下村塾で、指示に従わず、反抗した態度をとった「市之進」に対して叱った言葉も「私を相手にせず、天を相手にせよ」と厳しく指導したのも「天」に対する考え方の共通性を見てよい。

いずれにしても、人間愛にあふれた逸話の多い両人である。西郷も松陰も出発は朱子学である。そこに、多感な青年気に陽明学と出会い、行動的で、功利や名利を求めない主体性を重んじた考え方の下に自らの信じる道を生きたのであり、自己の生命への執着が少なかったようであって、二人の最期もある種の潔さがあったのであろうと思うのである。西郷は郡方書役助の頃、仕えたのが郡奉行・迫田太次右衛門という農民を大切にした名奉行であった。ここから、農政について西郷は意見書を積極的に上申する。これが藩主斉彬の目に止り、抜擢と共に終生慕い続けた。斉彬は松陰が下田からの密航を計画していた頃、参勤交代で上京し水戸の藤田東湖、越前の橋本左内等天下の名士との交流を斉彬が積極的に「場」をつくり、天下の情勢への開眼となって行くのに対して、松陰は薩摩と異なる毛利藩で藩主の性格が著しく異なるためか、孤軍奮闘のイメージが強いのである。ただ、両者共に「藩主」の覚えは目出度く、ともに藩士としては恵まれた環境にあったといえるだろう。
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