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山鹿素行について
【2011/07/27 14:37】 エッセイ
掲題の「山鹿素行」について、恥ずかしながら私はその人物の詳しいことは知らない。怠慢と言ってしまえばそれまでであるが、一般的に知られる「山鹿素行」なる人物は、其の道に詳しく、興味を持っていないと単なる歴上に名を残した人物ということで終わってしまう可能性がある。
まず、有名な「元禄赤穂浪士事件」の「本所吉良邸」討ち入り事件の総指揮を執った『大石内蔵助良雄』の山鹿流陣太鼓を想起する方々が多いと思われる。



此の事件は江戸幕府が開府されてから一世紀を経たころ、一種の安定期を迎えた元禄年間(1688~1704)に起きた、主君への理不尽な幕裁への抗議を、復讐へと転化して「悲願達成」した、日本の歴史上「三大仇討事件」の一つとして、事件発生以来、今日まで連綿として「日本人の心」を揺さぶり続けたものである。それは「忠臣蔵」とも「赤穂浪士」とも呼称されて、日本人的な喝采を浴びる事件となった。幕府は、芝居や演劇の表現方法の「上演」をしばらく権力で禁じざるを得なかったのである。
山鹿素行24.5.14


厳密にいうと、この事件は「私憤行為」を客観的にさばいたことから、その「復讐行為」に対しては、いわゆる「判官贔屓」の国民感情(日本人の感情態度)にマッチしたものであったとされる。徳川政権は、「理」では律し切って、「名誉の切腹」を命じて決着を得たが、「情」の部分では「割り切れない」感情を国民(庶民)に残した、ある種の予期し得ぬ不思議な国民感情の隆起をまねいたことの「後始末」に苦悩したようである。
このようなことから、「討ち入り」は、「私憤に発した行為」を、公的にさばいた「からくり」の隙間をついた、反幕府の精神を内包していたのである。「なさけを弁えぬ裁決」であったが故に、悪者とさせられた「吉良上野介」は「けしからん人物」として演出され、いわゆる「貧乏籤」を引かされるはめになった。四十七士は英雄となり、時の政権に抗議した行為にもかかわらず、礼賛され続けて今日に至っている。「元禄忠臣蔵」とは、その意味で不思議な事件であった。総指揮を執った大石良雄は、山鹿素行の配流(幕府の処罰)を受け入れた「播州赤穂」の藩主、浅野家の庇護を受けた「儒者」の影響を受けた人物であったといわれる。

吉良上野介は、地元の愛知県、吉良郷では、いまだに名君として尊崇を集めているという。しかし、全国的に喧伝できない「何か」があって、沈黙せざるを得ないようだ。
人間は、「理」だけでは國家の安寧秩序を保てると思うのは間違いである。個々人の好き嫌いを一律に処せないのは経験的に知っている。勿論「情」は極めて個人的な、自然な感情であるから、此れを合理主義的な思惟方法では除去できない。政治家が「理」で国家の安寧秩序を達成しようとしても、不可能である。
この山鹿流兵学をもって長州藩に仕えたのが、吉田松陰の祖先である。だから、松陰は生涯を通して、山鹿素行を「先師」と呼称し、自分の尊敬する師である佐久間象山を「師」と呼称して、二人の「師」を尊崇していた。
山鹿素行24.5.16


この「山鹿素行」は江戸初期の儒者ともいえるが、彼の治者階級への教えは「士道論」となって、後世に影響を与えることになる。
今日は、武士道への導入として、この稿を書いてみた。今年の秋に、「武士道」についての講演を予定していることから、いくつかの勉強したものを書き綴っていきたいと思う。
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