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「岸信介総理大臣」と「吉田松陰」
【2011/08/23 07:26】 エッセイ
岩波新書に『岸信介』がある。サブタイトルは「権勢の政治家」とある。著者は原彬久さんという国際政治学、日本外交史、日米関係論を専攻の学者である。1995年に第1刷で2年後に第7刷が出ているので、販売実績は良好とみてよい。

この本を読む前の岸信介のイメージは、「60年安保時の首相」とか「昭和の妖怪」との謎めいた尊称?を蒙った政治家ほどであった。ただ、東京帝国大学法学部を、民法の権威とも云われる「我妻栄」先生と同期で、共に最高点の成績を取った頭脳優秀な人物との評は知っていた。「天皇機関説」の美濃部達吉博士とともに、憲法学を担当された上杉慎吉の優秀な愛弟子として大学に残るように要請されたが、官僚の道を選択したことも記憶していた。勿論、弟の佐藤栄作のことも知っていたが、読んでみて大変な人物だという事が解かった。
岸伸介 


総理大臣としては、弟の佐藤栄作が7年10ヵ月の連続在任という長期政権を保ったこと、戦後政治の決算ともいわれる沖縄返還という業績を挙げたこと、日本人最初の「ノーベル平和賞」を受賞したことから、政治的業績としては兄に優った印象があるが、人物の力量としては岸信介の方が遥かに優るのだという印象が強い。山口県田布施町の出身で、しかも二重の意味で吉田松陰とつながることは、読んでみて驚いた。野山獄で松陰と一緒だった富永有隣が晩年、この田布施町で私塾を営んだのである。富永は、松下村塾で助教として松陰の片腕として活躍?した人物だ。国木田独歩の作品、富岡先生のモデルである。

岸信介の曽祖父に佐藤信寛という、佐藤家三代目の人物がいる。この佐藤家も松陰と同じく「無給通り」という士席(下級武士)であったが、毛利家御内用掛書調役という藩の記録係をしていたそうである。明治以降に、島根県知事を務めた人物である。この人が、嘉永年間に『佐藤寛作手控』という記録を残していて、これが長州藩の治績を知るために大変役立つ資料という事である。そして、何よりも松陰と交わりがあって、松陰の修業時代に「長沼流」兵学を教授したのである。つまり、吉田松陰の先生であったのだ。これが、信介にとって曽祖父への尊敬と誇りだったようで、「松陰先生より曽祖父宛の書信を見たこともある」との追想(風声第2号)を岸は語っているという。

著者の表現では、この曽祖父の事になると、俄然、岸の口吻は熱を帯びる。そして、曽祖父への憧憬が政治家志望に少なからず結びついているとのことである。維新期に活躍した、木戸孝允、伊藤博文、井上馨らに佐藤信寛という身近な血縁を介して自ら追体験できるものだったろうとのことだ。つまり岸には、明治維新の精神と誇りが彼の人間形成の過程で大きく影響しているのである。これも、山口県人ならではのことであろうと思う。佐藤一族に教育熱心な医者の人物がいて、多くの教育費用を賄い、彼をとりまく教育環境と本人の資質、努力が相俟って国家的指導者、岸信介へと成長して行ったとのことである。
そして、帝大卒業後、官僚として大活躍、とりわけ満州経営に辣腕をふるったのであるが、結果としてGHQによる戦犯指名者となり、巣鴨プリズンで3年余りの幽囚生活を送ることになった。この官僚としての岸信介の活躍は、政・官・財の指導者をして彼の人脈、見識と行動力とが檜舞台で脚光を浴びさせることになったとのことである。

因みに満州国・「総務庁次長」なるポストが最大の実権を握っていたようである。彼はその地位にいて、辣腕をふるったのである。当然かもしれないが、背後には巨万の富が権力と表裏一体で、彼の資金捻出力とセットであったことも、可視的でない謎めいた部分があるらしい。これが、何であったかというと著者は明示していない。ここから自民党政治に、いわゆる政治資金力を擁する土壌が醸成される。しかし、このことは、次の記述が極めて暗示的である。曰く、「岸は田中角栄を評してこういう。僕をしていわせれば、田中は幹事長もしくは党総裁としては第一人者かも知れない。しかし総理として、つまり日本の顔として世界に押し出すとなれば、あの行動を含めて、やはり教養が足りない。柄が悪いね。・・・・・・総理という事になると、人間的な教養というものが必要だ(岸インタビュー)」237頁。

これを、どのように読むか? 判断なり、解釈が別れる所だろう。田中角栄の資金捻出方法が、ヤミでないと政治家としては必要十分条件を満たしていないということだろう。田中のライバルだった福田赳夫総理も、岸信介の直系の後継者として同じ思いであったに違いない。それ故に『天の声にも、時に変な声がある・・・・・・』という退陣の言葉になったものと思われる。そう、あの総裁選は、金権選挙と言われて、一夜にして数億円の資金にものをいわせて、権力交代を無理やりに勝ち取ったイメージがいまだに残る戦後政治史のエポックメーキングなこととして記憶に宿る。ここから、日本の戦後政治の方向性が著しくターンしたのである。

政界入りして以来、とんとん拍子に出世の階段を駆け上り、岸は首相の座を射止めた。政界引退後も隠然たる影響力を行使しながら、御殿場の大邸宅で悠々自適の生活を送り、90歳の長寿を全うして昭和62年夏の8月7日、波瀾に満ち、そして毀誉褒貶に富んだ生涯を閉じたのである。「昭和の妖怪」とか「巨魁」とも呼称された、大政治家である。かれの一族には「国際連盟脱退」で名を馳せた、松岡洋介や娘婿の安倍晋太郎、そして安倍晋三へと権力の血脈は続く。安倍晋三が、なぜに吉田松陰を尊敬しているのか、これで解かる。ついでだが、小泉純一郎も自分の母校たる神奈川県立第四中学(現・横須賀高校)の初代校長には明治42年に松陰の後裔(戸籍上)たる「吉田庫三」が就任している。
なお、余談だが、岸姓は漢学者だった父親、秀助の実家に養子として入ったために、佐藤姓から変わり実弟の栄作と姓が異なることになった。

読み終えて、政治家の最高権力者とは実力だけではない、「資金力」という暗黒な部分が垣間見えるように思う。時代の趨勢を追い風として、民主主義の旗印の下に民意を巧みに読み取り、国会議員と国民との人気をつかみとるという「風を読む力量と、運」とが作用して内閣総理大臣という魔性のポストに就任することが出来るのだろう。そういう意味で、岸信介という人は、特別に資質に恵まれた能力の備わった官僚として、そうして政治家として大きな人物であったと印象されるのである。それは、国家の使命を一身に背負う覚悟と、ビジョンを揺るぎない信念として生き切った、数少ない力量を備えた大人物であったと云えるように思われるのである。おそらく、現在の政治家には無い何物かを持ち合わせた、優れた資質を持った実力のある信念の人だったように印象される。
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