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衰えぬ「松蔭人気」①
【2011/08/25 07:48】 エッセイ
岩波書店で刊行された『日本思想史大系・54・吉田松陰』(1978.11刊行)の解題に相当する文稿に、藤田省三さんという方が以下のように記述している。全67巻のなかで、吉田松陰が独立した一巻を占めることに、日本の思想史上の価値なり、意味があるかと疑問符を投げかけている文意の解説である。因みに、佐久間象山や横井小楠、橋本左内や高野長英、渡辺崋山が一冊に収納されていることへの天秤としての判断である。大略は吉田松陰なる人物は「思想家」であるかどうか?との疑問を投げかけ、思想家としてよりも「状況の人」としての解説を試みている。それは、松陰全集のすべての著作を読み砕いての評価と受け取れる。だが、本当にそうだろうか。



何とも不愉快な「解題」である。それでも、日本中の非難を浴びることを慮ってか、松陰の知名度を一つの価値基準として、いやいやながら消極的な書き方をしている。曰く、松陰の名は歴史的人物の名を押し除けるほどの知名度を持っているとの論である。
丸山真男の愛弟子で日本思想史研究家の植手通有さんが、別の本でこのことを苦笑まじりに紹介をしているが、岩波書店の編集者の見識を疑わざるを得ない。どうして、こんな解題をとりあげたのか。もともと岩波書店は、インテリゲンチャの支持を得て、左翼的な論調を意識的に尊重して来た体質を持っている。昭和40年代に月刊『文藝春秋』で、京都大学教授であった会田雄次さんが『四大権威を叱る』との記事を書いたのを、今更ながら思い出す。会田さんのいう、四大権威とは、東京大学、日本放送協会、岩波書店、朝日新聞のことを言っていたと記憶している。私は、新聞社に就職して「教育」の方面の仕事を希望していたが、その夢は果たせなかった。

それは、毎日新聞と日経新聞であったが、全く分野の異なる会社に就職して、数年後に東証一部に上場している会社の管理職に成った途端に、日経新聞から毎月読者契約の依頼が我が家に届いたのであった。私は、意地でも読まなかった。学科試験は合格したが、面接試験で不合格となったのである。定時制高校、夜間大学の学歴が、その不採用の主な理由と思われる。確か「寛容と忍耐」が私の信条ですと答えたら、池田勇人内閣のスローガンがそれだったので、単なるコピーと受け止めたようだが、それは私のオリジナルな人生行路からのものであったので、臆面もなく堂々と披瀝したのがマイナス作用したのかも知れない。私の後輩が、この会社にて活躍しているので、遠巻きながら応援している。

まことに「マルクス主義」は、誰かが言っていたように一種の「アヘン」であって、この狭隘な見識なり価値観、史観は人間の実際のある姿を、「かくあるべし」で一面的に決めつける残念な見解である。オピニオンリーダーとして、知識人の責任を観念的にしかとらえられない、一種の悲劇である。1848年に『共産党宣言』が出て以来、瞬く間に世界の知識人?を洗脳せしめた「マルクス主義」は、人類の発展史を人為的に解釈して、「かくあるべし」との信念を、多くの著作で唱え続けた。これに洗脳された、日本の知識人の弊害は枚挙に遑なしの多くのインテリゲンチャを生み出した。多分、反ユダヤの思想が隠されているとも知らずに。戦前の左翼思想への弾圧も、もちろん問題である。思想弾圧だけでなく、人間として、国家人として主体的に考えるとどうなのだろうか。小泉信三博士が『マルクス死後50年』を堂々と披瀝したのは、さすがであったと云わねばならない。

当然、上記の「藤田省三」なる人物も、このくくりで見て差し支えない。右翼とか左翼のレッテルで物を価値判断するのが日本人の傾向であり、通弊であるが、「日本人」をさておいて論を立てる事には私は賛成しかねる。『大学・中庸』という四書五経の一角を占める本が岩波文庫から刊行されている。「かたよらざるを中庸という」、この言葉を、どのように受け止めるか?意見の分かれるところである。
阿部正弘24.5.5

だが、それよりも、ペリーの砲艦外交に対する対案を持ち合わせず、責任転嫁した阿部正弘の行為をどの様に判断するかである。260年余りの政権維持で、外様大名を政権外におき、反対に知行高の少ない譜代大名に幕閣運営をさせた「制度的な欠陥」が、対応を不可能にしていた事実があった。幕藩体制の苦悶と言われる、天保年間の幕閣は、水野忠邦一人に責任を負わせてはならない。世界史の中での日本を認識できないシステムこそが問われるべきであった。忠邦の野心をことさらに取り上げている書物にであうが、歴史とはそのようなものでは決してないのである。鎖国体制という、祖法を死守しようする限界が譜代大名にはあったことを忘れてはなるまい。長くなったので、続編を次に書きたい。

吉田松陰の幕末史に果たした役割は、世界史の観点からの行動であって、単なる「尊王攘夷」ではないのである。むしろ松陰の本音は「尊王開国」であったが、兵学者として国家の威信を胸中に秘めていたゆえに、「砲艦外交」への反発から、城下の盟を恥じた「国家観」から導き出されたスローガンであった。そうであるからこそ「華夷の瓣」を声高に論じたのである。それは、必然的に幕府政治のありかたへの批判となってゆくのである。「義」を重んじた松陰は「自分の命よりも」それを重んじたのであった。それゆえ、刑死に臨んで悠々たる態度で臨んだのであった。「吾れ今國の為に死す、死して君恩に負かず。悠々たり天地の事、鑑照、明神に在り」(全集第六巻・373頁)の辞世の句は、150年余り経過した今もなお、光り輝いているのである。衰えぬ松陰の人気は、日本国が続く限り、礼賛者が連綿と続くに違いない。誠に、日本人であることのアイデンティティーを「発見」させたのであった。それ故に「民族精神」ともいうべき『大和魂』という、日本人の魂を揺さぶる詩を残したのである。日本を大切に思う人々が、松陰人気を衰退させないのである。
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