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吉田松陰と武士道
【2011/08/31 06:39】 エッセイ
吉田松陰には自らが「師」と呼ぶ人物が二人いる。一人は江戸時代初期の兵学家であった「山鹿素行」である。「杉家」の二男として生誕した松陰は、養子の道がある程度約束されていたのであった。江戸時代は嫡子相続が一般的であったから、一族に嫡子の誕生がない場合は、後継ぎを迎えることで家系が保たれるので、この制度は、実は広くおこなわれていた。
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余談だが江戸期を通じて名君として知られる「上杉鷹山」、幕末期の宇和島藩主であった「伊達宗城」もそうであった。伊達の場合は、旗本の出身であるから、家系を保つ「養子制度」は、江戸期の隠れた幕藩制度を支え続ける重要性を持ったものであった。幸か不幸か名君に養子が多かったのも、江戸期の一つの特徴と言ってよいかもしれない。筑前の黒田藩、福澤諭吉の中津藩はともに薩摩・嶋津家からの養子であったし、11代将軍の家斉の様に50人を超える子供の養子や嫁入りは大変だったのである。今に残る東京大学の赤門は、この名残一つでもある。

松陰は、幼児に吉田家を継いだことから、山鹿流兵学師範の道を歩むことが義務付けられた。この「家學」を継いだこと彼の運命を決定づけることになる。松陰は特に山鹿流の開祖である素行を「先師」とよんで敬慕したのであった。

もう一人の「師」は佐久間象山である。こちらも松代藩の家臣であるが、藩主の「真田幸貫」も養子で、寛政の改革を指揮したことで知られる、「松平定信」の二男である。珍しいことに、御三卿の家系に連なりながら、外様大名の養子となり、これまた別格であるが、譜代大名しかなれない「老中」として「海防掛」を務めた例外であった。彼もまた、名君に上げられる人物で、藩の「天保の改革」を成功させたのであった。そのなかで象山を抜擢し、海防掛老中の時は、顧問役に登用したのであった。象山は佐藤一齊に学んで、儒者として出発したが、西洋兵学の研究にも勤しんで抜きんでた見識を持ち、木挽町に開いた「象山塾」は幕末期の私塾として大変な人気を博し、門弟はその質量ともに人気に相応しいものであった。吉田松陰、小林虎三郎は「象門の二虎」として優秀さを競ったことは有名である。

さて、この「先師」と「師」であるが、松陰は兵学の道を学んだことから、縁が出来る。素行も象山も幼児から「神童」の誉れ高い人物で、期待に違わぬ成果を得て、共に歴史上に名高い。しかし、武士道的観点からは、松陰のそれは山鹿素行から多くのものを当然深く学んだ。「武士道論」と「士道論」は厳密には区別されるが、松陰の著述をみると混在している。勿論、この区別は後世の研究家の呼称になるのもで、松陰の生きた幕末期には一般に峻別されていたわけではない。ただ、「士道論」は、山鹿素行の説いた「職分論」に基づくもので、松陰はとりわけ山鹿流という家學の関係から、素行の説を踏まえた論が濃厚であることは持ち勿論である。一般的には、江戸時代の武士道は士道論であると理解してよいのである。

平安時代の荘園に発生起源を持つ「武士」は、時代の経過とともに、荘園の守護の役割から次第に変容し、鎌倉幕府の開府によって治者階級(武家政権)となった。戦国時代からは、戦闘者の武士から領国経営のための教養が要請されることになる。戦闘員として優れていること以上に、統治者としての比重が増すのである。江戸時代はそれが固定化し、治者階級の思想、教養がより強く求められ事になった。新渡戸稲造のいう「武士の掟」としての、武士道の定義たる武士階級の「高い身分に伴う義務」(ノーブレス・オブリージュ)である。そして、武士の生き方、つまり道徳や倫理を含有する思想となったのであった。因みに、「武士道」について書かれている種々の書物は殆どがここに収斂されるとみてよい。

松陰の従兄弟に書き与えた『士規七則』は正しく、彼の武士道論であり、士道論である。元来、武士道という言葉は『甲陽軍鑑』が初出であり、山鹿流もここに起源を持つ。そして、単なる兵法のみでなく武士の道徳的思想となったのであるが、素行はこれに儒教的、とりわけ『孟子』を取り入れた解釈がなされている。朱子学は幕府統治に好都合であったが、「放伐論」を是認した孟子は、危険思想として、異端視されたのであった。
素行の言葉を伝える『山鹿語類巻二十一』は「士道論」である。これを読むと、松陰の著作の多くが、いかにこの士道論の影響の下に書かれたかがわかる。「先師」と呼んで、修業時代に取り組んだのが山鹿素行であった。したがって、松陰の武士道論や士道論を理解するためには、山鹿素行、『孟子』を読んでみることが重要である。因みに『講孟余話』は、孟子を研究しつつ、嘉永、安政期の日本の社会や政治外交に対して、松陰の時務論を展開したものである。それゆえ、山縣大華の朱子学的見解と意見が分かれるのである。思想家にして実践家として、行動の人であった松陰は、「士の道」を貫いた人生であっただけに、「士道」ということばが「武士道」より相応しい印象がある。
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