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『留魂録』のこと
【2011/10/22 19:11】 エッセイ
安政6年10月27日、吉田松陰は幕府の手によって処刑された。
吉田松陰の処刑24.3.25

今年は152年目ということになる。
今日(22日)と明日は、世田谷の松陰神社で「第19回 萩世田谷幕末維新まつり」が開かれる。昨年は萩市の野村市長、杉家のご子孫、河村元官房長官、萩市商工会議所会頭を務めている方々が参加した。日本は勿論、萩市にとって、松陰はまさしく「千秋の人」なのである。松下村塾を主宰しているとき、『万巻の書を讀むに非ざるよりは 寧んぞ千秋の人たるを得ん』と塾生を鼓舞して、共に苦楽を味わいながら学問をし、門人育成をした。

死罪を予感した時から、覚悟の著述をするという精神力には驚愕のほかない。親族に宛てた「永訣書」を読むと、感動を催さざるをえない。『親思ふこころにまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん』などのことばは、万感胸に逼ってきてしまい、心の置き所がなくなってしまう。
留魂録 


さて、『留魂録』である。


この松下村塾の門下生に宛てた遺書とも云うべき辞世の書が、門下生をして奮起させる起爆剤になったことは間違いない。実は、この書は二通書かれた。兵学者でもあっただけに、周到な配慮がなされているのである。それは、通常の扱いでは関係者に没収される可能性があると予測した松陰は、もう一通を牢名主に託していた。この牢名主は「沼崎吉五郎」という。奥州二本松藩の藩士で、殺人の罪から伝馬牢に入獄して、裁決が「伊豆七島へ遠島」であったことから託したのである。

刑期を終えて戻ったのが明治7年、江戸は東京となっていた。折しも神奈川県権令となっていたのが、松陰の門下生、野村靖であった。
野村靖

沼崎は落ちぶれた姿で野村を訪問し、松陰から預かった事情を説明しながら手渡した。読んだ野村は先生の自筆に間違いないといって預かったが、届けた沼崎を簡単に帰してしまったという。どうして、もっと丁重に扱わなかったのか、礼節の配慮に欠けた応対であったとどこかで読んだ記憶がある。したがって、以後の沼崎の行方は不明である。


実は、もう一通は、予定通り長州藩にわたり、門下生たちが涙ながらに回し読みや、書写を繰り返すうちに行方不明になってしまった。何とも残念であるが、幸い牢名主のお陰で現存し、これが萩の松陰神社に保存されている。二日間かけて書き上げたことがわかる。書き出しの和歌のあとに十月念五日と書かれ、末尾に十月二十六日黄昏書すと あるのである。

あれから152年。吉田松陰の名は不朽であるどころか、現代もなお伝記の類が続々と刊行され続けている。朗々として『吾 今 国の為に死す』と歌い上げ、従容として死についた。小説『花の生涯』の状況描写が、十分な検討なしに書かれたことがわかる。
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