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吉田松陰の母の手紙
【2011/11/18 17:23】 エッセイ
吉田松陰の母「たき」は良妻賢母のモデルに近い程に礼賛されている。此の母にしてこの子ありと云うべき母のイメージである、珍しい松陰の母の書簡を書きます。
安政5年11月、松陰が毛利藩の重役宛に老中「間部詮勝」を暗殺したいので、武器弾薬の貸与を願う書簡を送ったことで、嚴囚の意味を込めて、松陰の思いとは反対に、二度目の「野山獄」へ入れられてしまった。

このため門下生との齟齬を来たしてしまい、松陰は自分の「誠」が正しいかどうか「天」の裁きなり、声を聴きたいとして絶食に入ったのであった。安政6年1月末のことである。この背景に、木戸孝允が松下村塾の「客分」という立場にあったことから、時勢に先鋭化しすぎる松陰に対して、一定の冷却期間を置かせようとの判断から、門下生との交信を絶たせたという事情があった。
当時江戸にいた久坂玄瑞や高杉晋作が、師である松陰の「草莽崛起」の実践決起プランに対して、時期尚早との江戸情勢を伝えてきたことに、松陰が納得しなかった。
親のこころ 


その交信が桂の指図によって絶たれたことを知った松陰は、立腹して絶食に入る。此の時に、有名な松陰の言葉がのこされている。曰く、「桂は僕無二の同志なれど、先夜此の談に及ぶこと能はず、今以て残念に覚え候。江戸居の諸久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は、僕は忠義をする積り、諸友は功業をなすつもり。」となって、遂に松陰は野山獄の中で絶食の挙に出たのであった。

これを知った松陰の母「たき」が必要最小限の文言で、獄中の松陰宛に手紙を書いた。7千頁に及ぶ吉田松陰全集で、唯一、母の書簡が収載されているものである。
以下に、それを紹介します。

安政6年1月25日である。
吉田松陰の母


「一寸申し参らせ候。そもじ様いかが御くらし成され候や。さきほどにふりょ(不慮)の事うすうすみみに入り、あまりきづかはしさに申し進じ参らせ候。きのふよりは御食事たちとか申す事のよし、おどろき入り候。萬一それにて御はて成され候てはふかう(不孝)第一口をしきしだいにぞんじ参らせ候。はは事もやまひおほくよわり居り、ながいきもむづかしく、たとへ野山やしきに御出で候ても御ぶじにさへこれ有り候へば、せい(勢)になり力になり申し候まま、たんりょ(短慮)御やめ御ながらへのほどいのり参らせ候。此の品わざわざととのへさし送り候まま、ははにたいし御食べ頼み参らせ候。いくへもいくへも御こころひきかへ、かへすかへすもいのり参らせ候。めで度く、かしこ。」 
けふ                        ははより
大様

短文ながら、赤誠あふれることばが綴られている。獄舎でこれを読んだ松陰は、母を心配させたことに不忠の念を抑えることが出来ず、号泣して絶食を絶ったと伝えられる。「名文中の名文、赤誠あふれる母のまごころ」にうたれて、松陰は涙ながらに、絶食を断念したのである。
心なりやまz松陰の母24.3.31


此れを読むと、名文のモデルとされる、野口英世の母「しか」が、当時ニューヨークにいる英世に会いたい一心で、幼児期に訓導で英世の人生を切り開いてくれた、恩師の小林先生に託して送った有名な手紙と、心の中で重なり合うに違いない。

「おまいのしせ(出世)にはたまけました・・・」の書き出しで始まる愛息、英世への愛情あふれる手紙である。
野口は、この直前、細菌研究者としての研究成果に対して「学士院恩賜賞」という、科学者として日本で最高の名誉ある受賞も、恩師の血脇守之助に代理で受賞させたのであったが、この手紙に接するやいなや、矢も楯もたまらず「母恋しさに、望郷の念やみがたく」急転直下、帰国をしたのであった。

天皇陛下からの科学研究者への最高の恩賜賞を代理人に受け取らせた非礼も、そこそこに横浜港に帰ったのである。出迎えたのは、かつての恩師二人であった。
留学とは名ばかりの、日本を追われるかのように出国したのが明治33年、それから幾年経過。大正4年9月の、将しく凱旋帰国であった。その姿はまさしく『世界の野口博士』の姿であった。

ノーベル医学賞の受賞機会を二度も逸した程の前人未到の研究成果をひっさげての帰国であった。最初は第一回のノーベル医学賞という栄えある、かけがえのない、とてつもない栄誉を寸前で受賞し損ねたのであった。受賞者したのは同僚のドイツ人・コッホ博士であった。その差は、甲乙つけがたく、人種差別が背景にあったとささやかれたそうである。

さて、本題に戻ろう。松陰の母「たき」は、常に裏方の重責を果たし、苦労を厭わず、常に明るくして、立派に子息を育てた賢母であった。この生涯にわたる陰の功労が明治23年、皇后陛下からの「下賜品」を拝する栄誉に浴したのであった。宮中で代理として受け取ったのは、松陰のかつての門下生であった内務大臣・品川彌二郎で、恐懼感激して涙ながらに拝受し、長州にいる松陰の兄「杉梅太郎」(当時は民治と改名)に感激の手紙を添えて送ったのであった。 母は偉大なり、を絵に描いたようなこの書簡から読み取って、日本の母をもう一度、誇りを持って読んでくれることを願って、擱筆します。
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