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「吉田松陰」と「坂本龍馬」
【2011/12/27 10:01】 エッセイ
幕末史のヒーローとして、この二人は国民的な人気があるが、支持層は大分異なるようである。松陰人気と龍馬ファンとでも形容したらよいのかもしれない。
私は、この両者の「全集」を保持していて、目を通す機会が多いのであるが、同じ「全集」といっても内容は全く異なるのである。



学ぶ視点が異なることで、両者共存といったらよいのであろうか。支持層が殆ど違う。
松陰は所謂「興味本位」では、その全集に太刀打ちできない。
松陰先生24.3.31

とてもではないが読み物風に取り組もうとしたら、ギブアップしてしまう。「大漢和辞典」を備えておかないと読めない難解な漢字がならぶのである。だから、相当の根気と、探究心を要するのである。

一方、「坂本龍馬全集」は、龍馬自身が論考的な文稿を書いていないため、遺されている自筆のものは、大半が「書簡」であり、その各々に懇切丁寧に解説が施されている。
坂本龍馬24.4.6

松陰の書簡が、礼節を弁えた或る意味では難解なものであるのに対して、龍馬の書簡は庶民のそれである。有名なのが『日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候』と書かれた姉乙女宛の書簡である。(坂本龍馬全集:32頁)
これを読んでわかるように、漢字の使い方や、ひらがな、カタカナの使い方が混在している。吉田松陰の書簡と比較すると、全く趣を異にする。
福澤諭吉全集に収載されている書簡を読むと、松陰のそれと大変よく似ている。つまり、書簡の心得が読み取れるのである。時候の挨拶から始まる、一定の書式で書かれているのである。桂小五郎なども、きちんとした書簡の在り方を心得て書いている。

これを、どのように表現したらよいのか。少なくとも「教養」という観点から見る限り、龍馬は松陰にとても及ばないといえるだろう。しかし、幕末という特殊な社会状況の中で考えてみると、或る意味では松陰以上の「慧眼」を感じさせるものがある。時勢を読み取る直観力と云う点では甲乙つけがたいように思える。吉田松陰が『人賢愚ありと雖も各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備する所あらん』(福堂策上:野山雑著)と、いみじくも喝破したように、龍馬には特殊な能力があったのであろうと考えられる。そうして、龍馬は持前の直観力と、鋭い「勘」で時勢を洞察して幕末のヒーローの一人となったのである。正しく「賢愚を超越して一、二の才能」を龍馬は持っていた。

人は、その人の「一側面」のみを捉えて人物評価すると誤ってしまう。龍馬は漢文が解読できなかったが、棒読みしてその意とするところを読み取ったという話がある。文章論などは、彼にとってはどうでもよくて、言わんとする「勘どころ」の把握力が異常なまでに優れていたのだろう。また、同様に人物を見抜く力も優れていたようである。西郷隆盛や勝海舟の人物評の逸話はそれを物語っているようだ。この続編は別の機会に書いてみたい。
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