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「勝海舟」のこと
【2012/01/04 09:14】 エッセイ

今回は趣向を変えて、「勝海舟」について書いてみたい。なかなか洒落た雅号である。
浅草駅から隅田川を越える本所吾妻橋を渡ってすぐの川沿いに、勝海舟の銅像が建っている。
幕末には「三舟」なる人物がいて、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人を称したものである。この三者はいずれも幕府側の人物であった。
幕末の三舟24.3.25


その中では「勝海舟」が最も有名なのは、誰もが知る所で異論もないと思われる。ただ、幕末と云う特殊な時代に生きたことが、三者三様の人生航路を歩ませて、それぞれの「大」をなしたのであった。因みに「鉄舟」と「泥舟」は義兄弟の間柄である。この二人が、謹直なイメージを持った「古武士」のような人柄であるのに対し、勝は縦横無礙、奔放な思考や行動をとった人物という印象がなされる。『氷川清話』や、子母澤寛の『勝海舟』を読んだ経験を持つ人は首肯してくれるだろう。
勝海舟24.3.24

貧乏旗本の家に生まれた勝は、幸運にも「蘭学」によって人生を切り開くことになった。そして世界認識が広がったのも、蘭学のお陰なのである。そうしたところへ「ペリーの来航」があった。俗に「砲艦外外交」といわれるペリーの強迫に対して幕府は為す術がなかった。鎖国は祖法なりと神聖視されていただけに、開国はとても幕閣にとって容認できないものであった。この幕府の祖法にとらわれた考え方から脱出できない幕閣の責任者達の行動や判断は幕府の権威喪失の第一歩である。時の筆頭老中は「阿部正弘」であった。この人物は人間関係のバランスに配慮する「調整型」の人であった。最近の総理大臣では「小渕恵三」がこのようなタイプの人となりであった。実は、祖法とはいえないまでも、後述する幕政の伝統なりしきたりを破ってしまったのはどう考えればよいのであろうか。この阿部正弘に見出されたのが「勝海舟」である。何故か?

ペリーの砲艦外交にどのように対応すべきか、迷走の末に幕府の専権事項であった外交特権の放棄と、御三家や外様大名に政治への参画を認めてしまった。「藁をもつかみたい」気持ちで、苦境に立たされた難局を乗り切るためには、なりふりをかまっていられなかった。
即ち、「対応策の意見具申」を全国の武士階級に求めたのであった。しかし、大半は攘夷か開戦かであり、日本人特有の曖昧な返答しか返ってこなかった。それで時間稼ぎをしようとしたのであった。これを「ぶらかし」といった。気色を鮮明にしない日本人の特性は、変えられないDNAなのであろうか。四方を海に囲まれた島国で国境をめぐる問題に対する見識の無さ、国際外交の戦略性ある高等外交術は今日まで受け継がれているのである。西洋諸国の様に、頻繁に起こる国境問題や紛争経験が日本には歴史的に少なくて、そういったセンスが身につかなかったのかも知れない。

皮肉なことに、勝海舟の出世の契機は、この「意見書」であった。小普請だった勝の意見上書が阿部正弘に認められたのである。
それはペリー来航直後の嘉永六年七月十二日付けで書かれた。日本も軍艦を造れ、人材と登用すし、外国との交易用の大きな船を建造して交易は積極的に行い、その利益を以て国防の費用にあてる。西洋風の兵制採用、軍艦教練所を作るなどの、当時としては先進性に富むものであった。吉田松陰はこの当時、「脱藩」の処罰で、いわゆる浪人であったために建言出来なかったのかもしれない。ただし、毛利藩に対しては「将及私言」や「急務條義」などの上書を書いている。これらからすると吉田松陰も建言の機会があったら勝海舟と同様の内容で行っただろうと思われる。

それはともかく、勝はこれからどんどん出世し、幕府海軍の基礎を作るのみならず、大政奉還の頃には、幕府の代表のような地位まで登りつめる。そして、徳川慶喜との深い縁のかかわり、さらに「江戸無血開城」の一方の立役者となってゆく。幕府が倒れるまえの文久年間に坂本龍馬との出会いがしばしば語られるが、その頃既に幕府が統治能力を失っていることを、対立者側に打ち明けるほどであった。大胆不敵といおうか、機を読むに敏な人となりは明治の世になっても変わらない。伯爵海軍大臣という顕官にまで登りつめるのである。子爵の爵位に不満で四尺の自分の身長(小男)をもじって、伯爵の爵位を欲しがる鉄面皮でもあった。わがままで、癇癪もちは福澤諭吉が咸臨丸で太平洋を渡った時に見聞している。それが最後に『痩我慢の説』で人間性を揶揄される一幕があったのである。
世渡り下手の私などは、もっと勝海舟を勉強すべきだったのかもしれないと振り返ることが多いのである。いずれにしても、達者な人生航路であった人物である反面、自分の栄達の為には仲間を陥れても自分を大切にした人物だったようである。それは、海軍の優秀なテクノラートであった「小野友五郎」の生涯(中公新書)の最終項を読むと、そのことが書かれていて、彼に貧乏籤を引かせて、功績はさっさと自分のものにするしたたかさをもっていたようである。
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