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「高木兼寛」と「松山棟庵」
【2012/01/23 12:24】 エッセイ
「高木兼寛」と「松山棟庵」

東京慈恵会医科大学の開祖「高木兼寛」は、日本で最初の「医学博士」である。時に明治21年。「開祖」とするのは、「慈恵医大」と通称しているが、これには多少の紆余曲折を経て現在の正式名称である「東京慈恵会医科大学」となった経緯があるからである。高木兼寛


この高木兼寛は一般には「慈恵医大の創立者」として知られているが、掲題のもう一人の人物については、関係者を除くとおそらく知らない人が多いと思われる。
病気を診ずして病人を診よ2012.3.29


高木兼寛より年齢は上であるが、この人がいたからこそ慈恵医大ありである。つまり、創立者の一人とまで言い切って差し支えない。
では、その「松山棟庵」とはどういう人物か、その経歴について少し記して見る。
松山棟庵24.5.6


天保10年(1839)9月17日紀州那賀郡荒川庄神田村生まれであるから、長州の「高杉晋作」と同じ年に誕生である。若かりし時に和漢の学を修めた経歴をもつ人物である。当時儒者であり蘭医であった「新宮涼庭」が京都に開業医として名声を博していて、その婿となった兄新宮凉介の食客となって、安政3年には新宮凉庭塾の塾長となり、漢籍の他に蘭学も学んだ。慶應2年(1866)蘭医ボードインが横浜にいることを聞いて、逢いに横浜へ出て来るが、お目当てのボードインは既に帰国してしまっていた。そして、順天堂の創始者「佐藤泰然」を介して蘭医マイエル、仏医ムリノを訪れ、いわゆる西洋医学を学んだ。その後、福澤塾(慶應義塾)に学んでから、明治2年和歌山に戻り医を開業した。明治4年に大学に徴され、大学東校に出仕、大助教となった。
慶應病院2012.3.29

明治6年三田の慶應義塾の医学所(第一回目の慶應医学部と考えてよい)の所長となった。だから慶應の医学は、明治6年から13年までが最初で、大正時代になって再興したのが現在に続く「名門・慶應義塾大学医学部」である。再興にあたり、生前の福澤にお世話になった「北里柴三郎」の福澤への恩返しの美談があるがこれは後述する。

高木兼寛はイギリス留学から帰国した翌年の明治14年に、松山棟庵と相談して「成医会」を結成、この講習所の所長となった。これが慈恵医大の原点である。それ故に創立者と呼称せずに「学祖」と呼称される。いわば、何名かの創立者たちの代表理事と思えば間違いないだろう。翌15年には有志共立東京病院を共同で設立した。この病院の最初の所長となった人物こそ、「松山棟庵」であって、これが慈恵医大病院となるのである。後年には看護婦養成所を創り「日本で最初の看護学校」となった。この背後には、イギリス留学時代に、ナイチンゲールの看護学校を目の当たりにして日本でも「看護婦」養成所を創るべきであるとの信念を抱いて帰国したのが大きい。
こうした紆余曲折の過程で、皇室との関係から校名や資金(経費)の援助があったので慈恵と皇室とは大変ご縁が深く、今でも慈恵大学の入学式には皇族が出席するのがならわしとなっているそうだ。実は明治天皇が脚気で苦しんでいたという、特別な事情もからんでいたのであった。即ち「松山棟庵」は正しく言えば、高木兼寛を支えた人なのである。

高木兼寛は戊辰戦争を軍医として、師のウイリスと共に活躍した後、明治8年英国留学し、留学先のセント・トーマス病院医学校を主席で卒業したというから、相当に頭脳明晰な人であったようだ。このセント・トーマス病院医学校は、今ではロンドン大学の一部となっているそうで、テームズ川を挟んだ国会議事堂の向かい合いにあったそうである。
嘉永二年(1849)の生まれであるから、ペリー来航の四年前である。生誕地は薩摩藩領の「日向」、今の宮崎市高岡で、穆左(むかさ)という地名や穆左小学校もある所である。宮崎の市街地から内陸に入ったところである。
ドイツ医学が明治新政府の受け入れるところとなったから、イギリス医学は官学的なものとならなかった。師事したのがイギリス人のウイリスという幕末に駐日英国公使館付医官として来日した人物の関係から英国医学に学ぶことになったいきさつがある。海軍の軍医総監となったので森鴎外(陸軍軍医総監)と共に軍医としての功績が大きく、男爵となった。脚気の研究で、別名「麦飯男爵」と呼称されるそうである。

後の日清戦役や日露戦争での死者では、「戦死」以外の「脚気」による死亡が多く、これの克服の研究(食糧の内容改善・ビタミンの不足)を、大々的に行い、実証的に証明するがドイツ医学の「脚気・細菌説」と対立した見解のため、実際には大変大きな発見でありながら世界的にこの仮説が証明されたのは彼の死後であった。大正9年4月72歳で死去したため、このことは高木の生前には大発見にもかかわらず、その証明は途上であった。しかし、高木の創立した大学は大正10年の大学令による私立の大学、而も日本で最初の医科大学という単科大学となった。高木の脚気説と対立したドイツ医学は、陸軍の採用したところとなったから「細菌説」を主張し、その中心人物であった森鴎外とは遂に対立のまま両者ともに、ビタミンによる脚気食糧説の証明を見届けることなく死去してしまった。大正期は「結核」と「脚気」が二大国民病とされていたので、高木兼寛の貢献は誠に大きいと云わねばならない。因みに、『脚気ビタミン欠乏説』が確定するのは、大正14年のことであった。
これを書いていながら『闘う医魂』という、北里柴三郎の事を書いた小説を思い出した。
北里柴三郎24.3.30

北里は東大を出てドイツのコッホ研究所に留学して、医学を学んで世界的な功績を残しているが留学時代に東大教授の学説批判をしたことから、帰国後にいわゆる冷や飯を食わされる立場になってしまう。
この日本の宝とも云うべき優秀な人材を、在野に埋もれさせるのはいけないと立ち上がったのが福澤諭吉である。麻布に北里伝染病研究所を自費で作り、北里に研究の場を作ってやったのである。これは後に国の管理するところとなるが、この福澤への恩返しで大正年間に慶應義塾が医学部を再興する時に、無給で初代医学部長を買って出たのが北里柴三郎であった。これは、語り継がれるべき美談であると私は思っている。

東京帝国大学医学部の権威主義と、「ドイツ医学にあらずんば医学に非ず」の考え方に辛酸を嘗めたのは、一人北里柴三郎だけではない。
高木兼寛もそうした経験者の一人であるのは上に書いた通り。このことは講談社文庫の『白い航跡』(吉村昭著)を読んで見るとそれがわかる。
この慈恵医大の建学の精神は「病気を診ずして病人を診よ」というのであるそうだ。病者の痛みを共感できる「医の心」が、このような建学精神になったものと思われる。これは高木兼寛の精神だそうである。「厳密な医学に裏打ちされた医術と、あたたかい心を兼備した医師の育成」が、慈恵医大の使命だというわけだ。
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