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吉田松陰の「死刑」察知の手紙のこと
【2012/02/08 21:55】 エッセイ
松陰の「死刑判決」察知の手紙

吉田松陰の書簡中、安政六年十月十七日に門下生の「尾寺新之丞宛」の書簡がある。前日の評定所でのことから、「死罪」の判決を予知したくだりが書かれているので紹介したい。
出来るだけ讀み易くするために、全集を改変(改行)して讀み易くしてみます。

一翰呈上仕り候。私儀昨日御呼出しにて口上書書判仕り候。然る處存外の儀ども之れあり、今更當惑は仕らず候へども、屹と覺悟仕り候。・・・・・・之れに因り小生云はく、差違へるは思ひも寄らず、切り拂ひと申す事も志に之れなき事、口に云はざる事と大いに辯争致し候所、然らば下れ、後に申し聞けることありとのことなり。
左候て總人數、口書相済み候後又々呼出しに相成り、又讀聞せの趣は差違へのことは除き切拂ひと云ふ事計りなり。
僕又大いに辯争致し候所、遂に口上の事はどちらへ違うても罪科の軽重に預る事に非ざれば、迚もの事に其の方の申分通りに致し遣はすべし、併し他の文言に存念はなきかとて、末文の所両度御讀聞せ之れあり候故、志になきこと口に発せぬ事は何分にも一字も受難く、仰せ懸けられ候儀何ぞ敢て拒まんと申し、書判致し候。
井伊直弼24.3.25


末文の處「公儀に對し不敬の至り」と申す文あり、「御吟味を受け誤り入り奉り候」と申す文あり。
迚も生路(いきみち)はなきことと覺悟致し候。
右初日七月九日と昨日と三奉行出座なり。
九月五日と十月五日とは吟味役出座なり。
吟味役寛容の調べは全く無用に僕をだました計りにて、石谷・池田其の外最初見込を付けた所は首を取る積りに相違なく、差違と切拂との四字を骨を折って抜き候へども、末文の改まらざるをみれば矢張り首を取るに相違なし。
不敬の二字餘り承り馴れざる文なれども、不届など云ふよりは餘程手重き事に考へられ候。鵜飼や頼・橋本なんどの名士と同じく死罪なれば、小生においては本望なり。
昨日辯争に付いては随分不服の語も多けれども、是れを一々云ふも面白からず、只だ天下後世の賢者吾が志を知って呉れよかし。・・・・・・十月十七日       寅二拝

ここでのポイントは
① 十月十六日は、最初の取り調べ(七月九日)と同じく、三奉行が出てきている。江戸期の最高裁判所に相当するから、相当に重みのあることがわかる。
② は「差し違え」と「切り拂い」をめぐって、松陰が必死に弁明している。
③ しかし、判決には影響を及ぼさないことを松陰は読み取った。
④ 吟味役の取り調べは、実際の効力のない、いわば松陰にしてみれば「騙された!」との思いがして、納得いかないのであること。
⑤ 強引に「書判」つまり、サインさせられたことに、憤りを覚えていること。
⑥ 「公儀に對し不敬の至り」として、「末文」を変えていないこと。
⑦ これらを考え合わせると、「首を取るに相違なし」との結論に至るまでの過程が読み取れる。つまり「死刑」を確信するのである。だから『吾れ今國の為に死す、死して君恩に負かず。悠々たり天地の事、鑑賞明神に在り』。と判決言い渡し直後の「詠歌」となるのだ。
親思ふ23.3.29

この手紙の三日後に、松陰は「身辺整理」に向かう。その第一弾が、親族に対する状況報告としての「永訣書」をしたためることになる。そこには「遺言」として、兵学師範として独立した時の初めての「公用」で藩の海防視察をした時に、赤間関(今の下関)で購入した【硯】を祀って欲しいとの言葉になるわけである。
そうして「留魂録」の頭書の詠歌に繋がるのである。『身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂』と。これは、死罪申し渡しの直後にも吟じたようである。正しく遺言の絶句である。
安政の大獄は、江戸期を通じて最もいまわしい事件であったが、吉田松陰、橋本左内を失ったことは、日本にとって大損失であった。惜しんでも余りある。残念、無念。

余談だが、この安政の大獄は後世の研究家からも頗る評判が良くない。さらに井伊直弼は翌年三月、水戸家の家臣達から襲撃されて横死する。二世紀半にわたる統治の幕閣最高権力者が白昼に暗殺されることから、幕府の権威は著しく失墜する。同時に、「井伊家」は昭和二十年の終戦まで肩身の狭い思いを続ける。つまり「皇国史観」、「薩長史観」である。
したがって、安政の大獄が史料に基づいて実証的に研究される機会がなかったが、戦後になって「井伊家文書」としての史料が維新史に貢献するまでには、多大な時間を要したと云えるだろう。井伊直弼を「開国の父」と呼称することがあるようだが、それは間違いで、ただただ徳川家の安泰のみを願ったことであって、歴史の流れに抗うだけのことだった。

現在では、彦根市の「殿様」として市民から崇められているようである。
それはそれで良し!ということであろう。
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