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『将及私言』 上書のこと
【2012/03/08 15:49】 エッセイ
『将及私言』①

嘉永六年六月~八月 二十四歳

謹んで案ずるに、外夷の患由来する所久し、固より今日に始まるに非ざるなり。然れども今般亜美理駕夷の事、実に目前の急、乃ち万世の患なり、六月三日、夷舶浦賀港に来りしより、日夜疾走し、彼の地に至り其の状態を察す 軽蔑侮慢、実に見聞に堪へざる事どもなり。
吉田松陰


然るに戦争に及ばざるは、幕府の令、夷の軽蔑侮慢を甘んじ、専ら事穏便を主とせられし故なり。然らずんば今已に戦争に及ぶこと久しからん。然れども往時は姑く置く。夷人幕府に上る書を観るに、和友通商、煤炭食物を買ひ、南境の一港を請ふの事件。一として許允せらるべきものなし。

夷等来春には答書を取りに来らんに。願ふ所一も許允なき時は、彼れ豈に徒然として歸らんや。然れば来春には必定一戦に及ぶべし。然るに太平の氣習として、戦は万代の後迄もなきことの様に思ふもの多し、豈に嘆ずべきもの甚だしきに非ずや。

今謹んで案ずるに、来春迄僅かに五六月の間なれば、此の際に乗じ嘗胆坐薪の思ひをなし、君臣上下一体と成りて備へをなすに非ずんば、我が太平連綿の余を以て彼の百戦錬磨の夷と戦ふこと難かるべし。
若し然らずして安然日を渉る時は、追ふべからざるの悔いに及ぶべくと、窃かに國家の為痛心し奉るなり。故に忌諱を憚らず、妄言の罪を避けず、当今の急務条を論列するなり。


『解説』
この『将及私言』は、松陰が「過所手形」の発行を待たずに、江戸藩邸を出奔(脱藩)して藩から罰則を受けたが、藩主の粋な計らいで「向十年諸国遊行」が許されて、凡そ半年をかけて江戸に着いた直後に、ぺりーの開国を迫る来航に出逢って、藩主に上書したものの序論に当たる。かなりの長文の意見書なので、何度かに分けて書く。

実は、松陰は此の時「藩士」の身分を剥奪された「浪人」の身であるから、「上書」の資格がなかったので、江戸藩邸の役人たちから相当の非難を受けたが、それは松陰も承知の上での行為だった。

「夷人幕府に上る書を観るに、和友通商、煤炭食物を買ひ、南境の一港を請ふ等、一として許允せらるべきものなし」が、彼の主張だが、「軽蔑侮慢、実に見聞に堪へざる事どもなり」が前提になっている。「砲艦外交」や「対等な國家との通商要求」でない態度に、激しく怒っている。

上記の「国家」は、通常、江戸期は「藩」であるが、ここでは「日本国」、または「大和魂の民族」の意味も込められていると考えてもよい。「外夷の患」は、前年、東北の沿岸防備視察をした松陰であるから、長年にわたる「夷船」の近海出没が脳裏にあったはずである。軽蔑侮慢な態度から、藩主に対応策を誤らないよう「心痛」のあまり、越権行為を承知での上書となった。

後半部分で、次のような文言が見える。「私儀先般御咎めの趣之れあり、御家人召放たれ杉百合之助育に成り居り候処・・・・・・素より罪と知りながら差出し候事故、鄙中さへ上達致し候へば、其の余何程の御厳罰仰せ付けられ候とも決して畏避仕り候事に御座なく候・・・・・・」と、命がけの思いで上書したのである。

後に松陰言うところの「二十一回猛士」の第二回目というわけである。因みに第一回は「過所手形無し出奔」である。國を思うこと、尋常ではない。
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