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吉田松陰と久坂玄瑞(1)
【2012/03/12 23:17】 エッセイ
『久坂生の文を評す』①(丙辰幽室文稿)

安政三(1858)年六月二日 二十七歳

最初に、久坂玄瑞から松陰に宛てた書簡を記す。
安政三年六月、松陰は免獄後の杉家での孟子の講義が終わり「講孟餘話」としてまとまり、一段落した頃である。
久坂玄瑞は、この年三月鎮西遊学し、肥後で松陰の終生の友である「宮部鼎蔵」と出会い、同じ長州藩の松陰を知らなかったことを惜しまれて歸萩したところである。
久坂玄瑞

そして、松陰宛に書いたのが、下記の漢文の書簡である。
これは吉田松陰全集の定本版第四巻、六九八頁(詩文集)に収載されている。玄瑞十八歳、松陰二十七歳の往復書簡である。
これが機縁となり、久坂玄瑞は松下村塾に入塾し、その後に松陰の妹と結婚して松陰の義弟となる。
全文が漢文の白文だが、正確には理解出来なくても良く、大略の意味はつかめるだろう。
久坂は幼少より神童の誉れ高く、自信満々にてしたためたが、折しも「ハリス」が下田に上陸すべく、開国の具体化が進捗している頃であり、松陰の攘夷思想的な返信を期待していた。だが、意に反して、思いもよらぬ手厳しい内容であった。

奉呈義卿吉田君案下(安政三年五六月頃)

久坂誠玄瑞再拜 謹白二十一回猛士義卿吉田君座前、今茲春遊鎮西入肥後、而訪宮部生、談及吾兄事、生賞讃吾兄娓々不已、誠欽慕非一日、且聞其言欽慕益不可堪也、乃将修短簡以陳其鄙衷而誠不誠吾兄、々々固不識誠也、無半面之識而乃欲修短簡、自知不免其鶻突亦矣、然誠雖不識其面而識兄之慷慨気節天下之豪傑之士矣、則不可謂之不識、而吾兄獨不識誠焉爾、誠鈍駑閽昧無足言者、而居   皇國之土食   皇國之粟則   皇國之民也、夫方今   皇國勢何如也、綱紀日弛、士風日頽、而洋夷日跳梁、屢乞互市、其意必在伺我釁伸其所欲也、而廟議以為不若暫許互市、而巌兵備於其隙、殊不知許互市則天下之人益

狎其無事、而益般楽怠傲也、兵備終不可巌矣、昔者弘安之役、元使屢至、我以其書辞不禮遂斬其使、元師十萬来寇、精兵以當之、彼一敗蕩然生帰者僅三人、元不復窺我邊、嗚呼我有男子國之稱不哉、儻使方今如弘安、彼謂互市、我對日、國法有禁、彼強之則斬其使、天下之人皆謂彼必來寇不可般楽也、不可怠傲也、綱紀必張士風必(以下缼)


まず、今茲三月鎮西遊行して、肥後で宮部鼎蔵から吉田松陰のことを聞かされた。攘夷思想に疑いを抱かず、ハリスを元寇の北条時宗に倣って斬殺すればよいとの、気負った内容が窺える。これに対して吉田松陰は下記の如くに、手厳しい内容の返信を書く。

議論浮泛にして思慮粗浅、至誠中よりするの言に非ず。世の慷慨を装ひ気節を扮ひて、以て名利を要むる者と何ぞ異ならん。僕深く此の種の文を悪み、最も此の種の人を悪む。僕請ふ粗ぼ之れを言はん、兄、幸いに精思せよ。
凡そ國勢を論ずる者は、上は則ち神后、したは則ち豊公にして可なり。時宗は李世に生まれ、急変を慮って、一着偶々中る、固より亦一時の傑なり。然れども以て國勢を論ずるに足らざるなり。
使を斬るの擧、これを癸丑に施すは則ち可なり、これを甲寅に施すは則ち晩し、而れども尚ほ或は及ぶべし。
乙卯を過ぎて今日に至りては、則ち晩きの又晩きなり。大抵事機の去来するは、影の如く響の如し。
往昔の死例を執りて、以て今日の活変を制せんと欲す、難きかな。
謂ふ所の思慮の粗浅とは是れなり。天下為すべからざるの地なく、為すべからざるの身なし。
吉田松陰とその門下24.3.25 

但だ事を論ずるには、當に己れの地、己れの身より見を起こすべし、乃ち着実と為す。故に身、将軍の地に居らば、當に将軍より起こすべし。身、大名の地に居らば當に大名より起こすべし。百姓は百姓より起こし、乞食は乞食より起こす、豈に地を離れ身を離れて、之れを論ぜんや。今吾兄は医者なり、當に医者より起こすべし。寅二は囚徒なり、當に囚徒より起こすべし。
必ずや利害、心に絶ち、死生、念に忘れ、國のみ、君のみ、父のみ。家と身とを忘れ、然る後家族之れに化し、朋友之れに化し、郷党之れに化し、上は君に孚とせられ、下は民に信ぜらる。ここに於いててか、将軍為すべきなり、大名為すべきなり、百姓乞食も為すべきなり。
乃ち医者囚徒に至るまで、為すべからざる者あるなし。是れを之れ論ぜずして、傲然天下の大計を以て言を為す、口焦げ、脣爛るとも、吾れ其の裨益あるを知らざるなり。謂ふ所の議論の浮泛とは是れなり。且つ兄が身の任とする所、弓馬なるか、刀槍なるか、舟船なるか、銑砲なるか。抑々将たらんか、使たらんか。神后の時に遇はば、能く武内たらんか。豊公の時に遇はば能く孝高たらんか、清正たらんか。家族朋友郷党の兄に従って節に死せんと欲する者、計幾人ありや。兄を助けて財を輸さんと欲する者、計幾人ありや。聖賢の貴ぶ所は、議論んに在ずして、事業に在り。多言を費すことなく、積誠之れを蓄へよ。(松陰在萩杉家、久坂在萩)

議論が浮ついていて、松陰は、この種の文や人物を憎む(悪む)とある。
墨夷の使者を斬るのは時期を逸している、北条の元使を斬った昔の逸話を再現しようとしても、短慮でただの議論だけだとある。議論の展開は自分の現在の身の立場から起せ。
貴殿は医者であるから、医者の立場からせよ。

墨夷(ハリス)を斬るとして、どうして実行するのか。神宮皇后の武内宿祢や豊臣の黒田孝高(官兵衛)はいるか、同じ思いでどれだけの者が貴殿の実行に手を貸すか。
実は、松陰自身ペリーを斬ろうと考えたことがあった。「日本刀の切れ味を見せてやる」と、意気盛んに考えたこともあった。しかし、実行には至らなかった。まして、時期が遅すぎ、条約締結してしまった今(安政三年)では話にならない。


孔子や孟子の言わんとしたことは議論でなく、周到な実行、実践である。
多くの議論より、信ぜられるに足る人物を研鑽陶冶せよ。という、意味の返信であった。しかし、これとは逆に、土屋䔥海には、久坂の人となりを評価していた。また、この返信の事情が、別途の項にて全集所載されているので次回で再度紹介する。
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