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吉田松陰と久坂玄瑞(4)
【2012/03/17 22:40】 エッセイ
「久坂生の文を評す」④

久坂の反論への松陰の再反論

吉田松陰の予想通り、久坂玄瑞から奮然とした反論が届いた。
松陰の胸中は喜びであっただろう。
天下の大計を必死に論ずる久坂青年の心意気に、喜んで再度の反論を書く。
これは、吉田松陰全集の第二巻「丙辰幽室文稿」、四Ⅰ四頁に収載されている。
タイトルは『久坂玄瑞に復する書』となっているが、此処では「久坂生の文を評す」と統一して、追番を附して書いてゆく。また、讀み易さを優先させて、前掲の武田勘治著から転載する。

松陰は一か月程の冷却期間をおいて再度の反論を書いた。
吉田松陰
さきに再書を辱うした。疾速に答をすべきであったのに、ゆっくりしてい居たのは、敢て怠ったのではない。足下が軽鋭で、未だ深思せず、あはたゞしく憤激不屈の言をなす故、これでは口舌で諭し得ないと考へたからだ。
しかし既に一カ月餘も経った。足下の考へも少しは熟したであろうから、試みに一言しよう。

時宗の擧は、これを丑・寅の年に施すはよいけれども、今日施すことは出来ない。足下が「やれ」といふのは、時勢を察かにせず事機を審にしないからだ。今の天下と古の天下と違ひはない、神功皇后や豊太閤がその昔為し得たことを今為し得ないことがあらうか。足下の「為し得ない」とするのは、志を棄て雄略を忘れてゐるからだ。
時宗2012.5.11


凡そ英雄豪傑が事功を天下に立て善謀を萬世に遺すには、必ずその志っを大にし、その略(企畫)を雄にし、事機を審にし、事機を審にして先後緩急を先づ内に定め。、伸縮張弛を徐に外應させた。今や徳川氏はすでに二虜と和親したのであるから、わが方より斷交すべきではない。我れより斷交すれば、自ら信義を失ふわけである。

今の計たるや、國内っを静にし條約を巌に守って二虜をつなぎとめ、その間に乗じて、蝦夷を開拓し、琉球を我がてに収め、朝鮮を合併し、満州を服させ、支那と提携し、印度にも手を差し伸べ、以て進取の勢を張り以て退守の地盤を固めて、神功皇后の未だ遂げ給わざりしところを遂げ、豊太閤の未だ果たし得ざりしところを果たすに如くはない。誠にかくの如くなり得ば、二虜の如きはたゞ我が駆使するままだ。そこで、前の無禮の罪を責めるのもよろしい。勘辯してやってもよい。何ぞ必ずしも區々たる時宗を眞似て虜使を斬り、さうして愉快がる必要があらう。

けれどもそれは幕府の任であり、諸侯のつとめで、吾が徒の辯じ得るところではないのだ。吾が徒がこれを言ふは空論虚談で、慷慨を装ひ氣節を扮する業たるに過ぎない。聖賢が「辭を修め、誠を立つ」るのとは距離がある。

足下は一醫生でありながら天下の大計をいふ。それで常倫にあらざることが分る。そこで僕は足下を誘うて正道に進めようと思ひ、前回もあのやうに反復した。然るに足下はそれが分らず、あはてゝ「樽俎を越ゆる」を咎めるのだと解した。わけても僕が望みを足下にかけたのは、正にその立場を超越さすことが出來ると1思ふ故であるのを知らず、足下は敢て超越しようとはせず、徒らに坐して論ずるばかりだ。僕が大いに惜しむのはそこだ。

足下の滔々千言の書も、要するに辯に過ぎない。一事として躬行に基づくものはないではないか。一語として空言でないものはないではないか。しかも自ら「憤激の餘りこれを心に発してこれを紙に書す。」といふ。これでは全く、快々鬱々として胸迫り心結ばれて、止むことを得ず來り訴へるのではないか、誠にお氣の毒な次第だ。

そこで今一度足下のために、その胸を闓きその心を廣くして上げ、悉くその空言の病弊をとり去り、これを躬行の域に歸らしめようと思ふ。足下、幸に敬んで聽け。
およそ、道に汚隆(盛衰)があり、時に否泰(塞通)があり、位に尊卑があり、徳に大小がある。大徳が尊位にをり小徳が卑位に居るやうであれば時は泰、道は隆である。否ずんば否ず。これが天地の常形であり、古今の通勢で、ちっとも不思議はない。

けれども人として天地の間に生れ、資性凛氣の萬物に異るからは、まさに綱常・名分のことを以て我が責となし、天下後世のことを我が任とすべきだ。それには先づわが身から始めて家に達し、國より天下に達するのだ。わが身から子に傳へ孫に傳へ、曾玄に傳へ雲仍(遠孫)に傳へるのだ。かうすれば達せざる所なく傳はらざる涯もない。達することの廣狭は實踐の厚薄をあらはし、傳ふることの久近は志の淺深をしめす。

心を天地に立て、命(使命)を生民(人類)に立て、往聖を繼いで萬世を開け。足下が誠によく力をここに用ひ、食息・坐臥・語黙・動静につけて、造次もこゝに於いてし顛沛もこゝに於いてするならば、躬行の軽んずべからざること、空言のたやすく為すべからざることを了解するであらう。

孟子はいって居る、「人の言を易くするは責なきのみ」と。苟も自ら責め自ら任ずる人ならば、どうして易々と論じ得よう。ともかくも、實踐を顧みず論ずる者は、孔孟がこれを裁かうと欲したところだ。足下は誠によく論ずる。何れ天下に裁いてくれる人があるに違ひない―。


松陰はさかんに論議する人であった。このようにその論議は常に地についていた。この立場は我が身、我がたちばを忘れないということである。実践を主とする者(わが本文を盡すに忠実である者)は、我が身我が立場を離れてものを考えるわけには行かない。
久坂は俊敏であり、頭脳も明晰で、しかも身を殺して義を為そうと勇む青年であったが、まだ意氣にまかせて、俊敏な才とよく働く頭とを駆使するに急であった。

手厳しい返信であるが、松陰はまだ見ぬ青年の前途をおもんばかりながら地に着いた論議をせよと久坂を厳しく諭している。この、激しい論議の応酬は、更にもう一通づつ交わされる。
吉田松陰24.3.25

松陰の主催する村塾が開かれる前であるが、既に松陰はこのように、教育的な指導を久坂に行っていたと考えてよい。勿論、後に久坂は松下村塾のリーダーとなり、絶大な信頼を得て、松陰の妹を嫁にして松陰とは義理の兄弟となるのである。これには、最初に江戸遊学した時の友人「中谷正亮」が介在するのであるが、この詳細は後に記す機会があるだろう。
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