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吉田松陰と久坂玄瑞(5)
【2012/03/20 15:04】 エッセイ
「久坂生の文を評す」⑤

『松陰の再反論に対する久坂の再々反論』

松陰が「久坂生の文を評す」と、久坂からの最初の書簡(安政三年五月末?)を受け取って、掲題の「久坂生の文を評す:六月二日」と題した、返書を書いた。
松陰からの返書に対して納得せぬ久坂は、それに反論を出した(六月六日過ぎ)。
そして、やや間をおいて(一か月程:冷却期間のためか)から、再度の反論を書いた。(これは、松陰全集には『久坂玄瑞に復する書:七月十八日』と題されている)

だが、未だ久坂は納得せず、元寇の時の北条時宗の故事にあやかるべきだという「再び吉田義卿に與ふる書」を、憤激をもって反論の書簡を書いた。
フビライハン


しかし松陰は、以前として久坂の考え(主張)を受け入れないのが前回の記事であった。
そして七月二十四日、三たび『吉田義卿に與ふる書』をしたため、反論を試みる。
白熱した論議の応酬は、松陰の教育的配慮もあってか、ものいいが少し柔らかい印象がある。そのためもあってか、久坂は再々反論となる。では、それを見て行こう。(出典は、前回同様の武田勘治著から)残念ながら、吉田松陰全集には久坂からの書簡は定本版に第一回の漢文のみしか収載されていない。久坂玄瑞(小)


誠白す。きのふ土屋氏へ寄って、吾兄十八日の手書を得ました。縷々八百言、反復懇惻、必ず僕のために胸を開いて下さるとのこと。然るに不肖の惑いよいよ塊結し、一言なきを得ないのです。敢て議論を好むのではなく、惑を鮮かにしてほしいのです。

來諭にいはく、「徳川氏すでに二虜と和親す、我れよりこれを絶つはこれ自らその信義を失ふなり。若かず彊域を謹み條約を嚴にし、以て二虜を羈縻し」間に乗じて大東亜圏を固めて、「神功皇后の未だ遂げたまはりしところを遂げ、豊國の未だ果たさゞりしところを果たさんには。何ぞ必ずしも區々の時宗に倣ひて虜使を誅斬し、而して後に快とせんや」と。こゝが謂ふところの感です。

頃日、人禽(日本人と洋人)雑居し、交商すでに行はれてゐるが、利は果して我れにありや、害果して彼にありや、抑々我れ損して彼れを益するのか。、交商すでに行はれて天下の人々は謂ってゐる、國家に憂ひはないと。『易』に「危きはその安んずることある者なり、亡ぶるはその存するを保する者なり」とある。

方今天下の人心は安んじてゐる。かくの如くその存することを頼みにしてゐる。かくて兵器は何れの時に備へ得るのか、士氣は何れの日に伸びるのか、危急存亡も未だ知るべからざる今日である。
而もかの虜は來って瀾濤萬里の外に交商し、吾れの利するところは見えるが損するところは見得ないのである。どうして、「我れに害なくして益あり」と謂はれるのであらうか。

神州の地は豊富肥沃、金銀・米穀・山種・海産一として他に求めねばならぬ物はない。故に古例は唐船蘭舶の外、埠頭に進を許さないのである。僕のかつて見た墨夷の來翰に云ってあった、「先づ數年或は五年十年の間試みればよく利あるや否やが知れる。若し賣賈によって益がなければ、その時こそ古例に復するがよからう」と。

今や交商の利害はこの如く明白である。で、彼に諭して、「古例に復しよう交商は無益だから」、といふべきである。かつ虜の如きは翻山倒海の豪の者であるから、如何でにはかに諾々と去らう、必ずや彼これを云ふであらう。その時こそ虜使を斬るばかりである。曲はかれにあり、直は我れにある、何で「自らその信義を失ふ」ことがあらう。
もし古例に復しなければ邪教は我が人心に薫入しやう。邪教は彼が交商の間に行はうと欲するところである。

王陽明も云ってゐる、「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」と。邪教が薫入すればヤソの害がないわけには行かぬ。然らば神州の衣食をし神州の言語を用ふるといっても、その心は即ち夷狄である。心中の賊とはこれである。これを破るは甚だ難い。古へも言ってある、「渭流寡といへども浸して江河をなす。かゞり火は微といへどもつひによく野を燎く」と。渭流は一簣の土で障ぎることが出來、かゞり火は一杯の水で消すことが出來る。天下の人心未だ夷狄にならざる間に我れより絶交すれば、この害を拒ぐことも出來るのである。そして絶交するにはたゞその使を斬るの擧があるのみである。

蓋し山中の賊は吾兄の謂はゆる支那・印度諸州である。心中の賊を既に破れば、山中の賊を破るに何の難きことがあろう。虜使すでに斬らるれば、天下の人は相顧みていふであらう、「海寇は謀り難い」と。臭穢がなければ飛ばない。
兵器忽ち備はり士氣忽ち伸び、そして天下を一洗して臭穢をなくすれば、蠅が何で飛ぶものか。そこで「彊域を謹むべく、條約を巌にすべく、而して二虜を羈縻すべく」、而して間に乗じて蝦夷・琉球を墾収することが出來、朝鮮・満州を拉することが出來、支那を必ず壓倒し、印度に必ず勢力を張ることが出來、進取の勢は必ず伸長し、退守の基は必ず固まるのである。

神功皇后の未だ遂げ給はず豊太閤の未だ果さざりしを必ず遂げ必ず果すことが出來るのである。然らば、神功皇后・豊太閤の擧は他日に施すべきで今日施すべきは北条時宗でなくて一體誰でああう。どうして「區々たる時宗に倣はんや」など謂えへるのだらう。

神功皇后・豊太閤の擧は急ぐことはない。時宗の擧こそ決して緩うしてはならぬ。これが天下の大計である。

天下の大計は僕の任ずるところでないのに、妄りにこれを言へば、吾兄はまた「空論虚譚、慷慨を装ひ氣節を扮す」の言となすであらうが、言ってもかまはないのである。
伏して願はくば吾兄よ、交商の利害と時機の緩急とを深察せよ。さきの貴報で諭されたところには僕は甚だ惑った、説あらば幸に氷解せよ。誠、謹白。


これが久坂からの三度目の書簡である。久坂は松陰の説明に納得せず、自説を主張しているが、内心は堂々天下の論客である松陰の見識、雄略論には驚かされていたのである。

書かれていることは勇ましいが、最初の書簡から徐々に、トーンが下がってきている。
それだけ松陰の議論や見識にたいして畏敬の念が湧いてきたのであろう。論戦のイニシアティブは松陰が握っているように読める。久坂は守勢の論議をしているように読めるのは、私だけではあるまい。

次回は、松陰が久坂の固執する、虜使を斬ることを受け入れ、一歩譲るが、反面「お手並み拝見」として、雄略や虜使をどのように斬るか手順をみたい。そこまでいうのなら、実行せよと逆に迫るのである。

18歳の青年と松陰のまだ見ぬ間柄だが、火花が散るような論戦を繰り返している姿は、とりわけ18歳の青年が難局打開のために必死に日本を守ろうとする姿に感動する。

日本の現状に我関せずと、決め込んでいる現代人と大変な違いがある。実は、これが松陰の教育手法の一つでもあった。同時に安政五年二月、江戸に遊学する久坂を送り出すにあたって「久坂実甫の東行を送る序」を松陰が書き与えて「はなむけ」としているが、この論議の応酬が思い出される文になっているのである。
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