【2012/03/21 10:44】 エッセイ
「久坂生の文」を評す⑥ 最終回・『再び玄瑞に復する書』
青年「久坂玄瑞」が北条時宗に倣って、「虜使」を斬れ! との必死な松陰への訴えかけをする。しかし、松陰は自ら癸丑の頃の体験談を交えて久坂に、最後通牒ともいえる返信を書く。 両者は、互に三度にわたる書簡を交わしたのであった。 こうして吉田松陰と久坂玄瑞との劇的な出逢いとなる。
今日は、松陰からの「最後通牒」ともいえる三度目の書簡を記します。 吉田松陰全集では、 『再び玄瑞に復する書』と題して『丙辰幽室文稿』に収載されている。 丙辰とは安政三年の「干支」である。松陰が野山獄から免獄となって半年餘り経過した頃である。松陰自身、自宅幽囚に慣れて落ち着きを取り戻していたと思われる。この書簡は安政三年七月二十五日に書かれている。 この一か月近い後に、有名な『松下村塾の記』が書かれている(九月四日)ので、松陰の中にふつふつとした教育の実践構想がなされていたのかも知れない。 では、書簡内容を紹介する。 短文なので、先ず『大衆版・全集第二巻収載:四二一頁』を記して、後に前回までの「武田勘治著」の現代語を記そう。 三たび書を辱うす。捧讀一番し、僕従前の疑は渙然として冰釋せり。足下謂ふ所の虜使を斬ること、夷書を以て案と為すは、眞に誠に名あり。是れ泛言に非ざるなり。僕向に思未だここに至らず、足下を以て空虚装扮の徒と為せしは、僕の過なり。 願はくは足下決然として自ら斷じ、今より手を下して、虜使を斬るを以て務と為せ。僕将に足下の才略を傍観せんとす。
方今天下、器械未だ嘗て缺けざるなり、財用未だ嘗て窮まらざるなり、人材未だ嘗て乏しからざるなり。足下誠に能く斬使の功を成さば、則ち縦横馳騁(ちてい)すとも、僕固よりその困くつすることなきを保するなり。
癸丑・甲寅の交、僕微力を以て膺懲を謀る、而して才なく略なく、百事瓦解す。 ここに於てか入海の擧決せり。
已にして風浪舟を誤り、縲紲身に逮ぶ。 乃ち盡く舊見を洗ひて更に新策を籌し、心を聖賢の道に潜めて、思を治亂の源に致せること、大略前二書に陳べし所の如し。
而るに足下敢て以て然りと為さざるは、是れ自ら其の才略の以て其の事を成すに足るを恃むのみ、誠に僕輩の及ぶ所に非ざるなり。 因って憶ふに、癸丑の年、僕東に在りしも、墨使を斬らんことを思はざりしが、其の冬、西のかた肥後に至りしに、宮部切に僕の怯懦を責む。 僕反って詰るに其の魯使を斬らざるを以てす。宮部その當に斬るべきなきを陳べ、反覆して屈せず。
甲寅の年に及んで、僕宮部と同じく東す。一日憤然として墨使を斬らんと欲す。 已にして其の益なくして害あるを思ひ、遂に其の謀を止めたり。 凡そ僕輩の無能なることかくの如し。
足下誠に能き其の言に酬いば、實に天下萬世宗社蒼赤の福なり。 豈に特に名を竹帛に垂れ、功を金石に勒せらるるのみならんや。 然りと雖も、其の言をして酬いざらしめば、僕輩と何ぞ擇ばん。 僕将に益々足下の空虚装扮を責めんとす。足下尚ほ僕に向ひて之れを反詰するや否や。 寅復す。 七月廿五日 この書は、重大な意味を含んだ内容を持っているので、前回同様の書(武田勘治著)の現代語を記します。 三たび書を辱うした。捧讀一番、僕のこれまでに疑ってゐたところは氷解した。 足下が論ずる「虜使を斬る」ことは、夷書に基づいて案出したのだとのこと。 なる程それなら誠に名文が立つ。これは泛言ではない。 僕はそこへ思ひ至らなかったので、足下を「空虚装扮の徒」としたのだが、僕の過ちだった。 願はくば足下自ら斷じて今より着手し、虜使を斬ることを任となせ、僕はまさに足下の才略を拝見しようと思ふ。
方今の天下とても、兵器に決して不足はない、財用とても缼乏してはゐない、人材もまた決して乏しくないのだ。 足下が見事に斬使の功を成就したら、それから縦横に馳驅するも決して困くつする必要のないことを僕は保證する。 一つ存分にやって貰ひたい。 癸丑から甲寅の交に、僕も微力ながら膺懲の企てをしたことがある。 しかし才なく略なく、百事ことゞとく瓦解した。 ここに於いて踏海の擧を決したが、風浪に舟を誤って縲紲のおよぶ身となった。 そこで盡く舊見を洗ひ去って、新しい計畫を立て、心を聖賢の道に潜め、思ひを治亂の源にいたすことにした。そのことは前二書で陳べた。 けれども足下は敢て賛同しない。 それは自らの才略を以て事を為すに足ると恃んでゐるからなのだ。誠に僕輩の及ぶところではない。 因って憶ひだすが、癸丑の年僕は江戸にゐたけれども、米使を斬ることを思はなかった。
その冬西して肥後へ行ったら、宮部がしきりに僕の怯懦を責めた。 僕は反詰して「それでは何故、君は魯使を斬らぬのだ」といった。 宮部は、「斬ろうにも斬れぬじゃないか」と反復して屈しなかった。 甲寅の年になって、僕は宮部と一所に東行したが、ある日憤然として米使を斬ろうと思ひ立った。 暫くしてそれは有害無益だと思ふやうになり、遂にやめにした。凡そ僕等の無能かくの如くである。
足下よ、眞實その言に違ひがなければ、實に天下萬世國家國民のさひはいで、たゞに名を竹帛に垂れ功を金石に彫られるばかりではない。 けれども、その言を達成することが出來なかったら、僕輩とちっとも違はぬぞ。 その時こそ僕はまさに益々足下の空虚装扮を責め立てるであらう。 それに對して足下は反詰し得るかどうか。 このように、幾ら識見を以て理を諭しても、議論には議論で反撥した。そこで松陰は一應久坂のいひ分を認め、「では一つ君の云ふやうにやってみてくれ」と、實践を求めたのである。だが、久坂に米使を斬るべき「手だて」はない。實践は不可能であった。 これで両者の議論は「キリ」がついた。久坂は、益々松陰の高い見識に推服すると同時に、慷慨家ぶり氣節家ぶることの愚を悟り、「着實なれ」「見を我が身より起せ」然らざれば逞しい實行家にはなれぬのだと、思うようになったことと察せられる。
果して、然らば、久坂が優れた健全な維新の志士たる基礎は、ここに培はれることとなったのだと云はれよう。 だが、不思議にも久坂の志士としての實践は主としてこの時の持論と同じ方向をとり続けた。 久坂はまだ松陰に入門しなかった。松陰の身分(幽囚中)が新しい弟子をとるを許さなかったからである。
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