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吉田松陰の門下生『人物評価』
【2012/04/02 17:29】 エッセイ
『子遠』に告ぐ
(己未幽室文稿・野山日記)安政六年正月二十七日  三十歳
松陰在萩野山獄、子遠在萩(原漢文)

この文は、松陰が処刑される年であり、その正月(一月)門下生と松陰の齟齬のため、往復を絶ったのが桂小五郎であった。江戸にいる、高杉や中谷・久坂と伏見要駕策や間部要撃をめぐって松陰と考えが異なり、有名な松陰の言葉になる。この年一月十一日に次の様な書簡が書かれている。

『某宛』と題して、「江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。その分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り・・・・・・」以下略。そして、遂に松陰は絶食の擧にでるが、母「たき」や父、叔父の玉木などから説得されて翻意する。
吉田松陰画像2012.3.30

この頃、松陰の身近にいて、支えになったのは入江杉蔵(子遠)兄弟であった。
この年のはじめから四月頃までは、松陰の書簡がこの二人宛に沢山書かれている。
ここでは、入江に宛てて書いた、門下生評が、松陰の言葉で語られているので、非常に興味深いものとなっているので紹介しよう。
全集の原文を、長文ながら記す。

念七日
家兄臨まる。星巌の往復、幕府弁解等數密議あり。又前田の説あり、諸友の絶交の事に係る。
夜、子遠獄に來たり、船越清蔵・村田蔵六、萩に來たるの事を談ず。

子遠に告ぐ  正月念七夜
木戸孝允24.3.25
桂生吾れをして諸友と絶たしむ、今謹んで其の言を奉ぜり。獨り汝は絶つべからざるものの存するあり、故に絶たず。汝其れ之れを察せよ。
防長絶えて真の尊攘の人なし、吾れと雖も復た尊攘を言ふを得ざるなり。然らば則ち防長唯だ汝一人のみ。切に自ら軽んずるなかれ。

汝、國を去りて後は僧となるを妙と為す。一には決志の機あり、二には身を隱すの便あり、三には生活の計あり。且つ僧侶にして反って天朝を尊ぶことを知る者あり。禅學も亦心志を定むるに足るものあり、是れ亦一益なり。
氏は精なるを貴び、衆きを貴ばず、況んや有志の士は募りて求むべきものに非ざるなり。切に記せよ、伏見の事、万々敗蹶せば則ち嘯集して賊となれ。頼政の事は汝固より自ら任ずる所なり。但し今日の時勢、宜しく佳族となるべし、切に無頼の賊となるべからず。

徳川は万々扶持すべからず。徳川を扶持するは、聖上の大仁なり。然れども仁既に至らば則ち之れに繼ぐに義を以てせざるを得ず、義尽くれば則ち仁其の中に在り。
天祖の訓へに曰く、「宝祚の隆えまさんこと、天壌とともに窮りなし」と。此の言、天胤世々信奉すれば則ち天下太平なり。草莽の臣切に謂へらく、聖上社稷に殉じたまひ、天下の忠義義士一同奉殉せば、則ち天朝寧んぞ再興せざるの理あらんやと。

天朝の論、万一姑息に出でば、神州中興の理なし。吾れ将に中興の論を上らんとするも、思慮未だ足らず、且く後日を待つ。
墨夷を屈せしむるの辞、吾が説を首と為す、聽かずんば則ち平象山の説之れを佐けん、猶ほ聽かずんば則ち干戈を用ひて可なり。是れ亦仁至り義尽くるの論なり。

汝識高く胆大、吾れの敬愛する所なり。恨むらくは才足らず、學尤も足らず、怨讐の氣過当なり。是れ汝の病なり。必ず荘四を罰せんと欲するが如き、是れ過当の怨讐なり。然れども吾れの有隣を怒るも、亦此れに類す、並に宜しく改むべし。

才は言ふに足らず。学に数種あり、礼楽制度は興王の規模にして、自ら其の人あり。戎場馬甲兵は攘夷の籌略にして、自ら其の人あり。但だ真心實意、自ら信じ自ら靖んず、道学の心法、真箇に味あり。

吾れ嘗て王陽明の傅収録を読み、頗る味あるを覚ゆ。頃ろ李氏焚書を得たるに、亦陽明派にして、言々心に当る。向に日孜に借るに洗心堂箚記を以てす。大塩も亦陽明派なり、取りて観るを可と為す。然れども吾れ専ら陽明学のみを修むるに非ず、但だ其の學の真、往々吾が真と会ふのみ
今の世界、老屋頽廈の如し。是れ人々の見る所なり。吾れは謂へらく、大風一たび興って其れをして転覆せしめ、然る後朽楹を代へ敗椽を棄て、新材を雑へて再び之れを造らば、乃ち美観ならんと。諸友は其の老且つ頽なるものに就き、一楹一椽を抜きて之れを代へ、以て数月の風雨を支へんと欲す。是れ吾れを視て異端怪物と為して之れを疎外する所以なり。汝に非ずんば安んぞ吾が心を知らん。

是れに由りて之れを観るに、尊王攘夷豈に其れ容易ならんや。須らく中大兄と鎌足と南淵先生に往来し、路上に如何の話を為せしか思量すべし。余書してここに至り覚えず泣下る。自ら其の由る所を知らざるなり。吾れ本と愚物なり、然れども吾が家の流風學術、篤厚眞實を以て世々相傳ふ。ここを以て吾れの敬愛する所と、其の吾れを敬愛する者と、皆忠厚の君子なり。
之れを軒輊すること実に難し、然れども一、二之れを言はん。但だ一旧友は前書に略ぼ之れを言へり。
 
高杉晋作
新知の暢夫、識見気魄、他人及ぶなし。但だ一暢夫を得て之れに抗せしむるに非ずんば必ず害を生ぜん。然れども両暢夫相抗すれば、必ず一暢夫の斃るる者あらん。是れ亦憂ふべきなり。此の間の苦心、吾れと一言せしに、も之れを首肯せり。

無逸の識見は暢夫に彷彿す。但だ些かの才あり。是れ大いに其の気魄を害す。気魄一たび衰へば識見亦昏む、嘆ずべし嘆ずべし。諷するに老家の説を以てせば、或いは一開発あらんか。抑々面従腹誹せんか、亦未だ知るべからず。

但し前日絶粒の事の如き、八十・子楫・無咎・各々諫書あり。其の懇惻は則ち感ずべし、然れども吾れを罵りて短慮と為し無益と為し、人の笑ひを胎すと為すこと、乃ち士毅と雖も論じ得て透らず。試みに之れをして無逸に語らしめば、無逸は則ち微笑せんのみ。固より吾れの虜短きに非ざるも、才の長ぜざるをしればなり。

嗚呼、鐘子期遇ほ難しとは其れ唯だ無逸か。實甫の才は縦横無礙なり。暢夫は陽頑、皆人の駕御を受けず、高等の人物なり。
久坂玄瑞
實甫は高からずに非ず、且つ切直人に逼り、度量亦窄し。然れども自ら人に愛せらるるは、潔烈の操、之れを行るに美才を以てし、且つ頑質なきが故なり。之れを要するに、吾れに於いて良薬の利ある、当にこの三人を推すべし。
前原一誠24.4.2

八十は勇あり智あり誠実人に過ぐ。所謂、布帛粟米なり、適くとして用ひられざるはなし。其の才は實甫に及ばず、その識は暢夫に及ばず、而れどもその人物の完全なる、二子も亦八十に及ばざること遠し。
吾が友肥後の宮部鼎蔵は資性八十と相近し。八十父母に事へて極めて孝、余未だ責むるに国事を以てすべからざるなり。

子揖は英邁俊爽なり。然れども吾れ常に其の退転せんことを惧る。退転の勢一旦萌しことあらば、駟馬もこれに及ばず。吾れ平生最も愛する所は子揖・無逸なり。
無逸は吾れ其の才敏なるを愛し、子揖は吾れ其の気鋭なるを愛す。皆其の己れに似たるを愛す、皆吾が過ちなり。無逸の頑は吾れ或は平にすること能はざらん。
是れ其の敬すべき処なり。子揖はその頑なし。然れども氣自ら恃むべし。且つ子揖は母賢に弟友なり、以て家を託するに足る。是れ宜しく責むるに国事を以てすべきなり。是れ吾が心赤の語なり、汝切に記せよ。

福原
は外優柔に似て而も智を以て之れを足す。子揖の鋭気愛すべきに如かず。然れども其の頑固自ら是とする処は子揖及ばざるなり。

無窮は才あり氣あり、一奇男子なり。無逸の識見に及ばざれども、而も實用は之れに勝るに似たり。無咎は更に二無に及ばず、而れども一味の着實あり、又気魄あり。大節に臨みて、又苟も生きざるなり。

子徳はは満家俗論にして、恐らくは自ら辞すること能はざらん。然れども其の正直慷慨未だ必ずしも磨滅せず、則ち亦時あるて発せんのみ。子大は俗論中に在りて顧って能く自ら抜く、篤く信ずと謂ふべし。又些の頑骨あり、愛すべし。

日孜は事に臨みて驚かず、少年中稀覯の男子なり。吾れ屢々之れを試む。天野は鑒識あり、其の日孜を取ること頗る吾が見に似たるも、子大を取らざるは、則ち吾れこれを信ぜず。
品川彌二郎の貌2012.3.28
天野は奇識あり、人を視ること虫の如く、其の言語往々吾れをして驚服せしむ。
誠に李卓吾の如きを以て之れを師とせしめば、一世の高人物たらんも、恐らくは遂に自ら是とし、其の非を知らずして死せん。吾が交遊中に於て暢夫・日孜を除くの外は其の意に当る者なし。噫、奇識なるかな。

嗚呼、世、材なきを憂へず、其の材を用ひざるを患ふ。大識見大才気の人を待ちて、群材始めて之れが用を為す。吾が交遊中、言ふに足る者なし。汝の知る所は仙吉・直八・松介・傅之輔
山縣有朋正装

小助・太郎。太郎・松介の才、直八、小助の氣、傅之輔の勇敢にして事に当る、仙吉の沈静にして志ある、亦皆才と謂ふべし。然れども大識見大才氣の如き、恐らくは亦ここに在らず。天下は大なり、其れ往いて遍く之れを求めよ。



ここには、村塾の門下生評がなされているが、まず、門生の「字」が、ふんだんに出て来るので、それを注記しておきたい。下記の内二十名が門下生である。
實甫=久坂玄瑞、 暢夫=高杉晋作、 無逸=吉田利麿、 子遠=入江杉蔵、 日孜=品川彌二郎、 子揖=岡部富太郎、 無咎=増野徳民、 無窮=松浦松洞、 子徳=有吉熊二郎、 子大=佐久間忠三郎、 天野=天野清三郎(渡辺蒿蔵)、 仙吉=岡仙吉、 直八=時山直八、 松介=杉山松介、 傅之輔=伊藤傅之輔、 小助=山県小助(有朋)、 太郎=原田太郎、 福原=福原又四郎、 士毅=小田村伊之助、 八十=佐世八十郎(前原一誠)、以上が松下村塾の門下生である。

 有隣=富永有隣、 平象山=佐久間象山、 前田=前田孫右衛門、星巌=梁川星巌、 桂生=桂小五郎、 村田蔵六=大村益次郎、船越清蔵=船越清蔵


この書き出しで桂生とは桂小五郎である。このが、叔父の玉木文之進を使い、松陰と門下生との交信を絶つようにしたことを、怒っている。そして、主だった村塾性の人物評を書いているのは、決起の時に資するために松陰から見た門下生の評価である。
非常に興味ある文である。

余程に信頼がないと、此れを打ち明けるのは難しいと思うが、宛先は「四天王」の一人、入江杉蔵だからこそだろう。杉蔵は村塾の末期に松陰と出会い、短期間で松陰から大変信頼された人物であった。ここでは、なぜか利輔(伊藤博文)が書かれてない。山県小助(有朋)は、その他の一員の部類であり、後に、自分の師とした山県の言とは微妙に違う。
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