長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

ペリー浦賀に来たる
【2012/04/08 16:12】 エッセイ
「吉田松陰の書簡」 ―ペリー来航の報―

(1)瀬能吉次郎宛
嘉永六年六月四日  松陰・瀬能在江戸
瀬能様                               吉田


浦賀へ異船來りたる由に付き、私只今より夜船にて参り申し候。海陸共に路留にも相成るべくやの風聞にて、心甚だ急ぎ飛ぶが如し。

六月四日
御國へもし飛脚参り候はば、此の書直様御さしだし頼み奉り候。左候へば、僕壮健にて英氣勃勃の様子も相分るべく候。事急ぎ別に手紙を認むること能はず。
吉田松陰画像2012.3.30


この書簡は、六月四日であるから、ペリー来航の翌日である。
宛先の「瀬能吉次郎」(一八○七~一八七○)は、長州藩士で、松陰の父の友人である。
松本村の杉の家はもと瀬能から借りていて、明治以降に購入した。
十九歳で江戸に遊学し国学・和歌に志す。明倫館教授も務めた人物である。
松陰は江戸遊学中や杉家幽囚中、世話になっており借本も瀬能から借り、読書した。
子息の瀬能百合熊は、松下村塾生となる。


※嘉永六年六月四日、松陰は江戸藩邸にて、長州藩の砲術係道家龍助に逢い、ペリーの浦賀来航を初めて知った。すぐに、佐久間象山を尋ねたが、もう既に塾生達と来航現場に出立していた。宿泊していた鳥山宅に戻ったが、午後八時頃、「意を決し」て「書を簡単に認め」た、後に「袂を振って象山の後を追うように浦賀へ単身で向かった」。
文中、「心甚だ急ぎ、飛ぶが如し」の有名な言葉は、松陰のいたたまれない焦りにも似た、急ぐ思いをもどかしさと共に言い表している。
書簡は、短いだけになおさら松陰の思いが伝わる。
そして、浦賀からの高台から、兵学者のめで、詳しく観察して、次の報告となる。


(2)道家龍助宛
嘉永六年六月六日  松陰在浦賀・道家在江戸
僕四日の夜、船を発し候処、甚だ遅し。且つ風潮共に順ならず。五日朝四ツ時(午前十時)漸く品川に到り上陸仕り、夜四ツ時浦賀に着仕り候。今朝高処に登り賊船の様子相窺ひ候処、四艘(二艘は蒸気船、砲二十門餘、船長四十間許り。二艘はコルベット、長さ二十四五間許り)陸を離るること十町以内の処に繋泊し、船の間相距ること五町程なり。
黒船24.4.8

然るに此の方の臺場筒數も甚だ寡く、徒に切歯のみ。且つ聽く、賊船の方申分には、明後日晝九ツ時(正午)迄に願筋の事御免之れなく候へば船砲打出し申す由、申出たる段相違之れなく候。(船は来たアメリカ國に相違之れなく、願筋は昨年より風聞の通りなるべし。然れどもかの國書は御奉行御船へ乗られ候へば出し申すべく、左なく候へば江戸へ直に持ち参るべく申す由。願筋の他の事にては日本より舟をやりても一向に舟に乗せ申さずそうろう。朝夕賊船中にて打砲いたし禁ずれどもかず。)
佐久間幷に塾生等其の外好事の輩多く相會し、議論紛分に御座候。濱田生近澤も参り居り候こと。
此の度の事中々容易に相濟み申す間敷く、孰れ交兵に及ぶべきか。併し船も砲も敵せず、勝算甚だ少なくそうろう。御奉行其の外下曽禰氏なども夷人のてに首を渡し候よりは切腹仕るべくとて、頻りに寺の掃除申付けられ候。佐久間は慷慨し、事斯に及ぶは知れたこと故、先年より船と砲との事やかましく申したるに聽かれず、今は陸戦にて手詰めの勝負の外手段之れなくとの事なり。
何分太平を頼み餘り腹つっづみをうちをると事ここに至り、大狼狽の體憐れむべし、憐れむべし。
且つ外夷へ對し面目を失ふの事之れに過ぎず。併し此れにて日本武士へこしめる機會來り申し候。賀すべきも亦大なり。
佐久間より江戸へ飛脚を立て候故、この一書認め申し候。御國へ別に手紙差出さず候間、玉木文之進迄此の手紙直様御送り下さるべく候。
  六月六日                          吉田寅二郎矩方
私事も今少し當地に相止まり、事の様子落着見届け歸る積もりなり。
  道家龍助様 人々御中
御やしき内瀬能吉次郎・工藤半右衛門へ此の事一寸御聽かせ下さるべく候。

※これは浦賀からの、松陰の黒船観察の第一報である。さすがに兵学家の眼で、四隻の軍艦を詳しく観察している。来たアメリカ船であることは、風聞の通りといっていっる。砲艦外交に對し。「交戦」の可能性を示唆しているが、戦力が違い過ぎていることで勝ち目はなく、陸戦に持ち込むしかないと言っている。
黒船2425.10


反面、泰平に慣れた武士階級の「狼狽ぶり」を憐れみながら、日本武士への「へこしめる」(褌を絞める)良い機会だともいっている。師の象山の慷慨ぶりは、実は以前に建策していたのに実行しない幕府に憤慨しているのである。
いずれにしても、幕末動乱の幕開けとなった、ペリーの来航を松陰は国難とと受け止め、以後、日本の独立のために奮闘し、またドラマチックは人生の始まりでもあった。
関連記事
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kinnhase.blog119.fc2.com/tb.php/185-a9ff5f05
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR