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『宮部鼎蔵宛』の意味深な書簡
【2012/04/08 23:16】 エッセイ
「宮部鼎蔵宛」書簡

嘉永六年六月十六日         松陰在江戸・宮部在肥後(前半原漢文)

久しく華翰に接せず、渇望日に甚し。五月二十四日江戸に抵り、梁山泊に投ず。
即日家兄の書を得、封を開けば則ち貴書あり、喜幸抃躍、急に展べて之れを讀む。
未だ數行ならざるに魂を消すこと數々なり。
豈にの大故相踵いでここに至る、風樹の感如何ぞや。
向に僕の一書もなきを疑ふ、今此の書を讀み覺えず聲を失ふ。
宮部鼎蔵写真24.4.8

但だ両尊共に高齢、加ふるに兄が平生の誠孝を以てせしは憾みなからん、別に亦或は少しく慰むべし。
僕屏居中言ふべきものなし。

昨年十二月八日官裁下り、藩籍を削らる。
早春の間に書を呈し、其の詳を言ふ。料るに已に覧に達せるならん。
僕痩駑と雖も為すあるの時至る。幸に高念を勞するなかれ。
梁山泊恙なし、二生ありこれに従ふ。僕居所未だ定まらず、假居す。
尊藩佐分利君も亦居未だ定まらず。九月に江戸に來りてより徒らに旅店に在り。
僕昨日を以て始めて相見る。其の旅店の便を闕くを恐れ、急に之れを梁山泊に引く。
梁山泊の光景頗る繁華を覺ゆ。佐分利君志を洋文に有するよし、僕甚だ心を同じうす。
将に相與に之れを謀ること少なからざらんとす。
濱田の生一人、僕嘗て知る所、此の節兵學修業の為め江戸に來れり。素より未熟なれども人物孑介(けっかい)、立志甚だ鋭し、亦洋文を學ぶの志あり。

濃人生長原も亦僕に先んずる數十日に來府し、交友尠からず。
獨り老臺なきを恨むのみ。然れども老臺善しとする所に見い、亦少しく慰むべきなり。
老臺善しとする所の三四君、三四月の交弊國へ御立寄下され候由、僕発程後にて甚だ残念に御座候。家兄内々拝顔を得、種々御高話拝聽仕り候よし、且つ容易ならざる御厚情の御傅言も之れあり恐れ入り候事の由、委悉家兄より申越し候。
僕放廢の身と雖も、幸に父叔兄弟あり、溝壑に轉ぜずして素志とする所を得、願はくは放念せよ。扨て四君の内佐分利君の外未だ御到着之れなく候。
併し近日御着と相待ち居り申し候。
徳川斉昭24.4.9


水府の事御同慶に存じ奉り候。一昨年接する所の人物も皆々芽を出したるよし、尤も喜ぶべきなり。藩人村田が書の事敬承し奉り候。水府老公上書得と穿鑿の上申上ぐべく候。

僕正月二十五日を以て発し、大和に過り森田謙蔵・谷昌平(新助事改名)・安元杜預三を訪ひ、留まること雨月に及び、森田と河泉の間に遊ぶ。森田は頃ろ酒を廃し讀書甚だ勉強仕り候。詩あり云ふ、「落剝江湖卅歳餘。放浪詩酒費居諸。慨然今日碎盃去。欲著人間有用書。」

伊勢に過り斎藤拙堂を訪ひ、美濃より中山道通りにて五月二十四日江戸に達す。二十五日より鎌府に至り、六月朔日江戸に歸る。

四日乃ち浦賀の吶々たる怪事を聞き、其の夜より浦賀に至り其の様子を視る。當今列藩の士氣奮起するもの甚だ多し。
奈ともするなし閣老の犢鼻なく、此の度の一事國體を失ふもの甚だ多きを。有志の士、豈に慨嘆の至りに堪へんや。委曲の様子定めて御承知成さるべく候。
扨て尊藩御軍備の整ひたること聲名都下に噪がし。其の他越前侯・岡崎侯など令名あり。

佐久間象山24.3.25
佐久間修理、羽倉外記頻りに幕吏へ苦心せしよし、然れども遂に修理を用ひず。其の藩侯の為めには大いに用をなしたる趣。
僕日夜其の家に至りその詳をきく、中々長鬚生も忼慨を起し申し候。
僕十日を以て江戸に歸る。
是れより両三日、江戸尤も噪がし。

九日浦賀の隣栗濱にて両奉行出張、夷の圖書受取の次第僕細かに之れを見る。誰れか之れが為め泣憤せざらんや。
かの話聖東國なるもの新造の陋那、乃ち堂々たる天朝を以て屈して之れに下る、如何如何。唯だ待つ所は春秋冬間又來るよし、此の時こそ一當にて日本刀の切れ味を見せたきものなり。此の度の事列藩の士及び策士論者、内拂いに決する者十に七八。噫、惜しいかな。
六月十六日              (又故ありて名を改む)吉田寅次郎矩方
宮部鼎蔵殿


山鹿素水安全無異。僕先書甚だ無稽の妄節申上げ、甚だ赧然(たんぜん)仕り候。然れども都下も亦此の風説ありしよし。
此れ已下一覧之れを火かれよ。
那珂通高(江幡五郎)24.4.8

通高の事、僕江戸に來り始めて其の詳を聽く。鳥山へも其の後両三次は來りし由。
併し昨年機を失ひしを甚だ悔い、人に接するを欲せず。

鳥山も亦甚だ氣の毒に存じ候。大事を成す迄は暫く聲息を絶し、交友間へも所在を隱す位のことなり。併し英氣益々勃々たる様子なり。下妻邊に徘徊するよし。
僕一たび之れを訪はんと欲す。
然れども春時以来遊んで日を過せし故、未だ及ぶに暇あらず候。
鳥山幷に大渕鼎三・和田修義等より周旋千苦慢辛、甚だ感ずべき事也。森田へ書の一事、僕森田を訪ひし日委曲申したる事などは必ずしも事結局を待たざるか。
甚だ之れを疑ひ、江戸にて堅約仕りたる様子相話候處、森田大いに怒る。
僕因って兄決して此の信を失ふの事なきを思ひ、料るに兄江戸御發迄五郎の事聽えず、故に再び議論之れありたることなるべしと存じ、森田へ其の故なるべしと申し候處、森田も鳴程夫れ等の事なるべしと後には心解け申し候。

當時兄従來の御事は夢にも知らざれども、僕料る所即ち兄の所謂大事結局迄五郎の書は案頭に閣くべしと申すに符号仕り候。
然れども右の通り僕已に之れを言ひたれば、鶏肋集・五郎の書を兄の僕に賜へる書と合併して、僕よりこの故にて遲達に相成りたる段を森田へ申越すは如何。
御同意に御座候へば差急ぎ候ことに付き、及ばずとも僕迄御遣はし下さるべく候。已上。
二白
南部侯は當秋登府、奸臣之れに従ふよし。

宮部鼎蔵は肥後の人で、松陰と同じ「山鹿流兵学師範」である。松陰が、独立師範となってすぐに「鎮西旅行」で長・平戸での修行を終えて、帰路に清正公の廟に祈りをささげた。弟の敏三郎の「聾唖」を治して下さいと祈願した。その途次で、肥後の宮部鼎蔵と逢い、意気投合して松陰の終生の友となる。松陰より十歳年長だが、東北旅行や房総の海岸防備、相州の防備視察等を共にする仲であった。宮部は、池田屋の変で討死してしまうが、東北旅行を途中まで同行した「通高」(当時は江幡五郎)は、明治まで生き延びて文部省の官吏となった。松陰や宮部と同行したのは、南部藩の藩内抗争で兄が死去、政敵の田鎖への仇討を求めて、江戸から白河迄同行、伊達藩領内で再会している。

この書簡に記されている『日本刀の切れ味を見せ度きものなり』とは、ペリーへの刺客と解されいることもあるらしく、「膺懲」の表現ながら、松陰のペリー乗船は刺客目的だったとの説で松陰の著書を書いた本もある。
これが、意味深長な書簡とタイトルをつけた所以である。
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