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『懐旧九十年』 岩波文庫
【2012/05/13 23:26】 エッセイ
『石黒忠悳子爵』の回顧談

日本陸軍の「軍医制度」を創り上げた人物が、掲題の本を口述筆記をまとめて、添削のうえ「岩波文庫」から出版されている「石黒忠悳」子爵である。
懐旧九十年


この本は、大変に興味を喚起してくれる。しかし、口述であるから自分に都合悪い記事は、当然カットされる。


私は、「海軍軍医総監」をつとめ、男爵にまでなった人物で、宮崎県出身の「高木兼寛」博士を調べているうちに、森鴎外の先輩であった石黒忠悳に興味を持ったのであった。
石黒忠悳



高木兼寛博士は、明治初期に「英国医師ウイリス」とのつながりから、英国のセントトーマス医院(医科大学)に留学して、イギリス醫學を学んで帰国した。英国での留学した大学では首席であったそうである。戊辰戦争で、薩摩藩に従軍してウイリスとのご縁が出来たことが、英国留学になったのであった。

一方、陸軍は石黒忠悳の人脈から、「森鴎外」も陸軍衛生問題調査の為にドイツに留学した。

「兵部省」が、大村益次郎亡きあと「陸軍省」と「海軍省」に分かれて、それぞれ独自のの歩みを始める。
実は、これが後年まで尾を引いて、昭和の「陸海軍犬猿の仲」の淵源をなすのである。「陸軍の長州」と「海軍の薩摩」という「閥」が生まれる背景が明治初期から始まっていたのだ。

日清戦争を詳しくみると、山県有朋は、この戦争では大した軍功をあげていないが、勝利者であったことから長州特有の自己主張と、本人の権力欲があり、次第に日本の「軍政家」として政治権力の掌握とともに官僚支配に成功する。
山県有朋

山県も、出自が下級階級であったためか、権力を握る執念は大変なものだった。反面、「閥」の形成にはことのほか熱心だった。後継の軍政家として「桂太郎」を同じ長州の出身からか、後継者とする。
桂は山県のように、江戸期の出身階級は卑しい身分ではなく、高杉晋作などと同じ中級の藩士であった。そこが、権力は魔物たるゆえんである。石黒忠悳は幕府の下級役人の代官の子息として、陸奥郡山に生誕、後にルーツの長岡に移住する。

そして、書生から出発して醫學を学び、学者の道を歩むが、官吏となって文部省から陸軍省に移籍する。
ここから出世の階段をとんとん拍子に上るが、背後に山県の存在があったようだ。軍医制度の創設に尽力し、中将級の軍医となる。

一方の、高木兼寛は海軍の尉官から出世して海軍軍医総監にまで上り詰める。
高木兼寛


明治13年に英国醫學を修めて帰国、慈恵医大の原型創設とともに、当時から問題視されていた「兵士の脚気」を研究し、「米食」によるものとの食事説の仮説を経験論的に研究して、主張する。
「米食」に原因があり、「麦飯」または「洋食・パン」を実験的に導入して、パン・洋食を兵士に食べさせて遠洋航海で実証的に成果を主張するが、陸軍のドイツ醫學の脈絡はこれを認めない。
とりわけ石黒忠悳門下の森鴎外は、否定の急先鋒であった。

この話は、吉村昭著『白い航跡』に詳しい。高木兼寛も、森鴎外もともに結果を見ることなく死去してしまう。
実は、兵隊が田舎の貧困階級出身者が多いため、「白米」の食事は、日常生活では困難だったから、兵役に徴すると「麦飯をはじめとする粗食からの解放」が実現したので、陸軍の兵士は喜び勇んで「米食」にあずかれる幸運を満喫していたのであった。これが、後に実証されるが、「落とし穴」なのであった。
森鴎外と脚気論争


結論を言おう。米食による「ビタミン」の不足が、脚気になったのであった。高木兼寛博士は、大正11年に死去するが、あと10年長生きすれば、主張が正しかった証明を見届けられたのに残念。一方、森鴎外は、大正7年に60歳で死去するが、幸運であった。生きていたら恥をかいたであろう。誠に幸運児というべきか。
森鴎外


掲題の「懐旧九十年」では、「脚気の研究に取り組んだ」とまでしか書いていない。誠に自伝は信用すべきであるか否かは、読む人々の判断如何である。下種の勘繰りではないが、石黒忠悳は高木説が正しいと内心では知っていたように思える。ただ、記述にはそれが削除(口述の添削)されている可能性がある。
自叙伝で、しかも口述であるから、自分に不利になることを、誰が言うか、書こうか?!
石黒忠悳とて人間である。神ではない。

マイナス評価は、現代人なら高木兼寛の正統的な伝記(白い航跡もその一つ)を読んでいる者なら、当然であるが、この書物は読み物としては大変に面白い。まるで、『福翁自伝』を読み直しているかのような錯覚に陥る。
どうして子爵にまでなりえたのか興味があるが、晩年に「日本赤十字」の社長をつとめ、また同郷の大倉喜八郎の出資によって「大倉高商」の創立を実務的に引き受けたり、社会的に大きな貢献をした近代日本の偉人の一人に数えられる人物であった。大正四年に野口英世が凱旋帰国した時に、東大の青山胤通を帝国ホテルに訪問させたのも、その前に野口博士と石黒忠悳が逢っていたことが理由であったといわれる。

つまり、当時の医学界の最高権威をも自在に動かせる、隠然たる医学界の実力者なのであった。
定年を前に、後進に道を譲る名目で陸軍から身を引くのが、どのように読み取れるか?ここに、ヒントがありそうであるが、名誉の為に邪推は避けよう。

昭和16年4月に97歳で死去するが、太平洋戦争を知らずして逝ったのも運命的なものを暗示しているようだ。
ただ、そうした興味本位より、知名度は高くないものの、日本の為に尽くした功績を先ず思うべきかと考えるのである。ドイツ醫學の基礎医学理論からは解明できなかった「脚気の原因」が、昭和のはじめ鈴木梅太郎のビタミンBの証明を知らずして亡くなった森鴎外は幸運児であり、昭和16年まで長生した石黒忠悳は、実は高木兼寛博士の実証的研究の成果である、ビタミン欠乏による「脚気」の原因を、実は晩年には知っていたはずである。

あまり知られていないが、日清・日露戦役の戦死者の何割かが、こうした医学界の派閥的な問題から「脚気」で亡くなったのである。それは数万人の規模である。合掌!
寺内正毅


 日露戦争当時の陸軍大臣をつとめた「寺内正毅」は、麦飯を兵士に食べさせることを主張したが、ついに実現しなかった。
こういうところに、歴史的な悲劇が潜んでいる。
なお、慈恵医大は明治時代に皇室からの「下賜金」を受けている。これは、明治天皇も、重度ではなかったが「脚気」に悩まされており、高木説の世界的な承認を願っていたのではないかと思われるのである。
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