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吉田松陰の最期への感慨
【2012/06/20 19:59】 エッセイ
吉田松陰の最期

安政六年十月十六日、四度目の評定所呼び出しが行われた。

七月九日、九月五日、十月五日に続く呼出しであるが、此の時には、前回、前々回の時と比べてまるで異なる厳しい調子であったという。(海原徹・吉田松陰)
前回から僅か十一日しか経過してないので、この間に取調べに対する何らかの変化があったのではないかと言われている。
巷間言われている「井伊直弼」による介入があったとすれば、おそらくこの時期であろうかと思われる。
即ち、「遠島」の処分を大老が「死罪」に改めたと云われているものである。
松陰先生24.3.31

そして、この翌日に尾寺新之丞宛に書かれている書簡に,このことは窺うことが出来る。
全集には以下の如く書かれている。
『一翰呈上仕り候。私儀昨日御呼出しにて口上書書判仕り候。・・・・・・左候て総人数、口書相済後又々呼出しに相成り又讀聞せの趣は差違へのことは除き切拂ひと云ふ事計りなり。僕又大いに辯争致し候所、・・・・・・末文の改まらざるをみれば矢張り首を取るに相違なし。』とある。
以後、松陰は親族あての書簡や、二日間かけて書き上げた『留魂録』二通を門下生宛に書いている。
この十日間に書かれた書簡や、著述を読むと「人間・吉田松陰」がどのような人間であったかが解かる。

親族に宛てた書簡は、世俗欲や、自分の生命を超越した、澄み切った心境がうかがわれる。門下生宛には、難局打開への松陰精神が、翌日に処刑を覚悟しながら書き上げられている。
誠に読む者をして、心を動かされる。吉田松陰の国民的な人気の秘密は、こうした私心のない態度にこそあるのであろう。

それゆえ、辞世の句となった『吾今國のために死す、死して君親に負かず。悠々たり天地の事、鑑照明神に在り。』と吟誦した内容にも、「國の為に死ぬ」と言っている。
同時に、松下村塾の教師として、門下生に「死んで見せた」のである。
この最期の緊迫した十日間のことは、どう考えてみても、通常ではない。天晴な人生としか言いようがないのである。そして、松陰の心に思いを致すと、「もっと長生きさせたかった」と
の思いが自然に湧いてくる。
限りなく美しく、私達を感動させる。
反面、死罪に処した井伊直弼に対する、独特な感情を湧出させるのである。

試みに、東京都世田谷区の両者の「墓」を訪れてみると良い。
残念ながら、井伊家の当主であったことから、大きな墳墓ではあるが、何の感慨も湧かないのである。
一方、松陰神社の境内にある松陰の小さな墓碑には、敬虔なる思いで両手を合わせてしまうのである。
高杉晋作24.3.25


そして、かつて高杉晋作から教えを乞うた「丈夫死す処如何」に対して、『死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし』という解答を書簡に託した吉田松陰先生。人間の生き方を、一方で説きつつ、自らそれを実践して見せたた吉田松陰の人生。それに対しては、誠に天晴れとしか言いようのない、言行一致の考え方と、実践に対してただただ頭が下がるのみである。そこには、全くことばはいらない。 合掌。
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