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吉田松陰の『学校創設構想』
【2012/07/25 10:09】 エッセイ
入江杉蔵への書簡(学校の興隆構想・女子教育)

安政6年(1859)10月20日(全集第8巻、422頁)

この日、松陰は入江杉蔵、飯田正伯・尾寺新之丞宛、父叔兄宛と6通書いた。
更に途中まで書き掛けて止めた『諸友宛』の、「諸友に語(つ)ぐる書」という遺書を書いた。
この精神力には敬服以外にない。お見事な人生の締めくくりの覚悟であります。
尊攘堂


原文を下記します。
「兼ねて御相談申し置き候尊攘堂(そんじょうどう)のこと、僕は弥々(いよいよ)念を絶ち候。・・・京師に大学校を興し、上、天子親王公卿より下武家士民まで入寮寄宿等も出来候様致し、恐れながら天朝の御学風を天下の人々に知らせ、天下の奇材英能を天朝の学校に貢し候様致し候へば、天下の人心一定仕るに相違なし。・・・只今学習院は学職方は公家なり。儒官は菅・清家と地下の学者と混じて相務められ、定日ありて講釈之れあり。是の日は町人百姓まで聴聞に出で候事勝手次第、勿論堂上方御出座なり。」

10月16日に評定所での「口書」(調書)の読み聞かせがあり、これで死罪を覚悟しながらも、愛弟子に日本国の将来を託す方策として「学校」を興そうとしていた。
尊攘堂


松陰は国力増大、国富の実現には教育が不可欠としていた。
日本国への切々たる思いが偲ばれます。
同時に「女子教育」のも関心を持ち、構想をめぐらしていたのであった。

教育者「吉田松陰」の面目躍如たる書簡である。
因みに慶応義塾の創立は安政5年であるから、この書簡はその1年後のことであるが福澤諭吉と吉田松陰が教育について語り合う機会が実現しなかったのが何とも残念である。
福澤も女子教育に熱心だったことは松陰と同様である。
品川彌二郎24.3.25


この「尊攘堂」設立は、明治になって「品川彌二郎」が熱心に松陰の意思を継いで、京都に建立した。
松陰関係の展示品等が、蒐集されたが、後に京都大学へ寄贈となり、現在では、京都大学構内に、その施設はある。

京都大学と尊攘堂

(上記の尊攘堂写真参照のこと)
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