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『伯父・竹院和尚宛』門下生の紹介書簡
【2012/07/25 11:07】 エッセイ
『伯父竹院宛』書簡

安政五年三月三日頃     松陰在萩松本  竹院在鎌倉


此の生を松浦松洞と申し、松本村の一奇才子、幼より畫名を得、今は隠然たる一家に御座候。
詩も亦清雋すべし。然れども詩畫以て稱せらるる事は好む所に御座なく候。此の度東遊仕り候ゆゑ、貴寺へ立寄り候はば御尊容照寫仕らせ度く、永く後世に傅ふるの存念に御座候。然るべく御賴み仕り候。委細は別翰申し上ぐべく候と存じ奉り候ゆゑ、匆々擱筆仕り候。
惠純も徳隣寺住職に相成り繁用の趣に御座候。歸國來两度ほど相對致し候。
吉田矩方再拝
錦屏老方丈 獅座下

佐々木小次郎歸國、御近状承知仕り安心仕り候。此の地いづれも無事に御座候。

瑞泉寺

この「瑞泉寺」境内には、「吉田松陰が訪問した石碑」がある。
瑞泉寺の松陰訪問の碑


<用語解説>
竹院 =(一七九六 ~ 一八六七)1 吉田松陰の母の兄。毛利藩では陪臣の村田右中の子息。鎌倉「瑞泉寺」「円覚寺」の住職を務めた後、京都「南禅寺」の住職。慶應三年入寂、七十二歳。
松浦松洞 = (一八三七 ~ 六二)萩の魚屋の息子。幼にして絵に秀で神童の稱あり、四條派の絵を学ぶ。
正装の吉田松陰2012.3.30


初期の松下村塾生で、吉田松陰の「自賛肖像画」を描いた人物。松陰は彼に「無窮」と字を与えて可愛がった。文久元年、同じ長州藩の「長井雅樂」提唱の「航海遠略説」(公武合体策)を破棄させんとして、京都で自刃。松下村塾生最初の殉難者となった。
隠然たる一家に御座候 = どことなく威厳をもった画の大家
清雋 = 清くてすぐれていること。
御尊容 = 御容貌
徳隣寺 = 萩の寺名。恵純はかつて鎌倉円覚寺に遊び、竹院和尚と交際があった。
錦屏 = 鎌倉の錦屏山に竹院住持の瑞泉寺があった。
(今も鎌倉の二階堂に在る。臨済宗円覚寺派の寺院、梅で有名)

<解説メモ>
安政五年、門下生の「松浦松洞」の江戸行きに際して、松陰が伯父の竹院上人に宛てた紹介状である。松浦松洞が肖像画を得意としたことから、訪問を受けたら、肖像画を描いてもらったらよいと記してある。あわせて、かつて伯父と交友のあった人物の近況も知らせてある。今、鎌倉の瑞泉寺を訪れると、小さな松陰の訪問碑が建っている。

当日は「松風会」の「巡検」で瑞泉寺を訪問した塾生の皆様を訪ね、松風会の常任理事と念願の初対面が叶った。このことは、編集後記に記されている通り、楽しい一日となった。
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