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『知行合一』と『事上磨錬』について③
【2012/07/31 12:17】 エッセイ
『知行合一』と『事上磨錬』


「知行合一」とは、「知と行を合せる。」ことでなく、「知」と「行」は本来一つのものであってる離るべきではないとの意味である。

知行合一24.3.30


「未だ知って行はざる者有らず。知って行はざるは、只だ是れ未だ知らず。」で知れば必ず行えるのであり、行ってこそはじめて知ったことになるのである。知と行は一つであるから、その別は単に表面の姿に外ならない。

「知の真実篤実の処は即ち是れ行。行の明覚精察の処は即ち是れ知。知行の工夫は本離る可からず。」それ故、体験のない知識は真実のものではなく、耳目から入った知識は説話に過ぎない。
虎の恐ろしさを知り、病気の苦痛を知り、悪臭のにくむべきをしり、飲食物の味、通路の険易を知るなどはその良い例である。孝行を知るのは、自然に孝行を考えてからのことである、陽明の説く知は、このように体験的知または真知ともいうべきもので、普通の概念的知識の意味ではなかった。


しかし世の中には無限の道理があるが、すべての理を体験しなければならないとなると、短い生命では到底不可能である。これをどうするかの問いに対しては、理は心にあるから、内に自ら工夫をすればよいのであり、また身体のよる経験のみが行いではなく、読書講習、学問支弁も行いであるからその心配は要らないとする。

王陽明・傅習録


「知行合一」説は理論としては不明確な点もないではないが、陽明独自の学説で、後世に影響するところが大きい。要は表面的な知識や口耳の学を誡めて、工夫・実践・鍛錬の重んずべき事を強調したものである。

陽明が「事情磨錬」を説くに至ったのは、四十二歳の滁陽にあった頃、弟子を世間の功利的風潮に染まらせないで専心求道に向かわせようと念願から、静座澄心を勧めたところ、動を避けて静を好み、枯槁空寂に流れて儒家の本領を忘れる傾向になったのが動機とされる。
事上磨錬24.7.31


もともと陽明自身も座禅や道家の修行に凝ったことがあり、婁一斎の影響もあってか内省的で、初期には「未発の中」「寧静」「寂然不動」「惟れ精、惟れ一」などを説くことが多かったが、弟子のこの弊を見て自らも反省するところがあり、人情事変の現実生活を肯定して積極的に人生を推進する立場をとるに至ったのである。

「事上磨錬」とは、環境や日常の事変に翻弄されることなく、動静を超越して修行することで、常に自ら主体となって、あらゆる機会を修行の場と化する意味である。
そこには知行合一と通ずるものがある。この立場にあれば、行住坐臥みな修行の場でないものはない。陽明が官務・軍務の繁忙の中にあって、常に修行を怠らなかったことは、この事上磨錬の実践に外ならなかったといえるであろう。事上磨錬は全くの修行の態度なのである。
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