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筑波山の山頂にて松陰を思う
【2012/08/15 14:35】 エッセイ
筑波山に登る(平成24年8月14日)

娘家族と一緒に、筑波温泉に一泊旅行して来た。
13日に大洗水族館に遊んで、孫は大喜び。2時間を費やすも疲れを知らずに、興味の趣くままに夢中。有名な大洗GCも隣接。筑波神社は参拝出来なかったが、14日筑波山に登る。

吉田松陰全集第九巻169頁、『東北遊日記』に筑波山に登った記述がある。
(嘉永四年十二月)
十六日 晴。驛を出て行くこと少許、右折して田間の小路に入り、舟にて小貝川を濟る。是れを四手の渡と為す。川は源を小栗に發し、土田井に至りて刀根川に入ると云ふ。豊田驛に出で又右折して松間の小路に入り、大砂・田中の諸村を經て北條驛に出づ。是れ土浦侯の領する所なり。筑波の半腹登れば驛あり、是に宿す。筑波は山名、亦以て驛に名づけ郡に名づく、常陸國に属す。時に天日ほ高く、眺望甚だ闊し、快言ふべからず。行程七里。

志ありせば


十七日 晴。驛を出て、筑波の二巓(てん)を極む。一を男體と日ひ、一を女體と日ふ。是の日天氣晴朗、眺望特に宜しく、關東八州の形勢歴々として指すべし。山としては富士・日光・那須、水としては刀根・那珂、皆目前に聚まる。但だ余は地理に暗く且つ獨行踽々たれば、其の山水っを論評する能はざるを憾みと為すのみ。詩あり、云はく。

 去年今月在鎮西      去年の今月鎮西に在り、
 温泉嶽上極攀躋      温泉嶽上 攀躋を極む。
 當時風雪掠空起      當時風雪空を掠めて起り、
 蘇山筑水望總迷      蘇山筑水、望總べて迷ふ。
 今年反作關東役      今年反って關東の役をなす、
 季冬乃跨筑波脊      季冬乃ち筑波の脊に跨る。
 左右顧眄快愉哉      左右を顧眄すれば快愉なるかな、
 富山白玉刀水翠      富山は白玉、刀水は翠。
 一身踪跡且難常      一身の踪跡且常なり難し、
 何況天上陰與晴      何況や天上の陰と晴とをや。
 賀生哭死定幾許      生を賀し死を哭す定めて幾許ぞ、
 千里人煙色蒼々      千里人煙色蒼々たり。
 嗚呼温泉自蘇筑友     嗚呼、温泉は自ら蘇筑の友あり、
 筑波自有富刀耦      筑波は自ら富刀の耦あり。
 不似遊子辭家郷      似ず遊子家郷を辭して
 睽離兄弟與父母      兄弟と父母に睽離するに。


筑波山
(吉田松陰が東北遊旅行で登った筑波山)


嶺を越えて眞壁に下る。眞壁は驛名、亦以て郡に名づく、笠間侯の領する所に係る。驛を過ぎて行くこと里許、休惠山を越えて便道より笠間に出づ。笠間は文武、館を分ち、分を時習館と日ひ、武を講武館と日ふ。夜、余が姓名を録し、人をして文館教授森田哲之進に使はし、且つ來りし所以のものは兵と經とを學ばんが為なるを告げしむ。

【解説】
この日記は「東北遊日記」の一部である。この「序文」に松陰の考え方が良く記されているので書いてみる。

有志の士、時平らかならば則ち書を讀み道を學び、經國の大計を論じ、古今の得失を議す。一旦變起らば則ち戎馬の間に従ひ、敵を料り交を締び、長策を建てて國家を利す。是れ平生の志なり。然り而して天下の形勢に茫乎たらば、何を以てか之れを得ん。余客歳鎮西に遊び、今春東武に抵る、略ぼ畿内・山陽・西海・東海を跋渉せり。而して東山・北陸は土曠く山険しくして、古より英雄割據し、奸兇巣穴す。且つ東は満州に連り、北は卾羅に隣す。是れ最も經國の大計に關る所にして、宜しく古今の得失を觀るべきものなり。而して余未だ其の地を經ず、深く以て恨み堵為せり。頃肥人宮部鼎蔵東北遊を余に謀る。余喜びて之を諾す。會々奥人安藝五藏も亦将に常奥に抵らんとす、遂に同行を相約せり。余因って一冊子を作り、古今の得失、山川の形勢、凡そ目撃する所は皆日を以て之れを記さんとす。
  嘉永四年臘月
                            吉田大次郎(藤)矩方識す。



この序文を読むと、兵学者としての素養も窺われ、また「坤輿圖識」で学んだ、日本との隣接國家のも言及されている。兵学者らしい「經國の大計」の為に東北遊学が単なる修業のみでなく、幕末の時勢を念頭に置いているのが解かる。兵学者の國家観ともいうべき経綸である。嘉永四年臘月に秘められたことがある。
過所手形(過書手形)とも書く
(個所手形の写真)

それは、同行の安藝五藏(盛岡人)が、兄の仇を果たそうとの事情があった。

この東北遊日記の初日の書き出しに、是に触れた一文で解る。
「辛亥十二月十四日」 翳。 巳時、櫻田邸を亡命す、・・・・・・。とある。

江戸期は他藩(他国)を通る時、関所通過の為に、「過所手形」という藩主の允形が印された身分証明書が必要であった。是を持参しないと正式に他国通過は出来ないのが原則で、是を犯すことは「脱藩」といって、藩士にとって重罪とされた。


事実、松陰はこの五カ月に及ぶ遊学から江戸に戻った時、藩邸には行かぬ積りであったが友人の勧めに応じて出頭したところ、裁決待ちの為に強制帰国させられ、後に吉田家取り潰し、即ち「浪人」となる。長州藩の軍学師範が、父親の「育」(はぐくみ)という、中途半端な身分に転落する。これ以降松陰の「有為転変」の人生航路がはじまる。「亡命=脱藩」の罪を犯した松陰を評して、将来を期待していた藩主・毛利敬親は『國の宝を失った』として、残念がったのであった。

この亡命行の研究は、これまで何名かの松陰研究者が考察しているが、嘉永四年十二月十二日付の兄梅太郎宛ての書簡に「官倘(も)し允さざれば吾れ必ず亡命せん。仮令今日君親に負くとも、後來決して國と家とに負かじ。」(全集七巻116頁)と、強い決意で敢行したことが解かる。藩主や親に一時的には負いても、将来はそうではないと言い切っている。
茨城県


こうして、江戸藩邸から亡命した松陰は、松戸を経由して筑波山に遊んだ。こののち、笠間を経由して水戸に入り、そこで『新論』の著者、会澤正志斎から「水戸学」を学び、人生の大きな糧を獲得するのであった。


私も筑波山に登り、「松陰を思い出していた」が、ロープウェイや近辺の売店等にも吉田松陰の来訪は書かれておらず、聴いてみても来訪の事実すら知らなかった。残念。

常用 藝文


帰宅してすぐ、常陸に在住する小学校以来の友人が、贈ってくれた吉田松陰の來常記事を掲載した『常陽 藝文』(2010年10月号)を読み直す。そこには、詳しく常陸の國での松陰の解説と行動とが記されていた。
また『水戸史學』第十号にも「吉田松陰と水戸学」の記事が掲載されていて、親近感を以て読み直した。

関東平野の中にある「筑波山」からは、雲間から「富士山」の雄姿が望め、松陰もここから江戸の町や富士山、霞ヶ浦、太平洋を望んだに違いない。
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