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高杉暢夫を送る叙 
【2010/07/25 11:51】 エッセイ
高杉晋作を「幕末の雄」にした有名な送叙を解説を加えて書いてみます。
教育史にも特筆される、「モデルともいえる送叙文」で、前回の杉蔵への送叙とならぶ名文中の名文と高い評価を得ているものです。
これを時間をかけても読んで大いに感動してください。

高杉晋作


(戌午幽室文稿収載) 安政五年七月十八日(1858) 松陰 二十九歳
余嘗て同士中の年少多才なるを歴選し、日下玄瑞を以て第一流となせり。已にして高杉暢夫を護たり。暢夫は有識の士なり。而れども学問早からず、又頗る意に任せて自ら用ふるの癖あり。余嘗て玄瑞を挙げて、以て暢夫を抑ふ、暢夫心甚だ服せざりき。未だ幾ばくならずして暢夫の学業暴かに長じ、議論益々卓く、同士皆為めに衽を斂む。余事を議する毎に暢夫を引きて之を断ずるに、其の言往々にして易るべからず。ここに於いてか玄瑞も亦尤も之を推して曰く、「暢夫の議や及ぶべからず」と。暢夫反って更に玄瑞の才を推して、当世無比と為す。二人懽然として相得たり。余或るとき傍より之を賛して曰く、「玄瑞の才はこれを気に原づけ、而して暢夫の識はこれを気に発す。二人にして相得たれば、吾れ寧んぞ憾みあらんや」と。是れより先。玄瑞已に東遊し、暢夫も今亦将に東せんとす。相後るること蓋し六月の間のみ。而して天下のいきおい、変動すること一ならず。当今幕府、勅に違ひて慮と和す。天子赫然として幕府に詔し、三家.大老を召したまふ。幕府の従違未だ測度すべからず。天下疑懼し。左右観望す。而して吾が藩新たに幕命を受けて、兵庫に備ふ。兵庫は攝津に属し、所謂畿内なり。畿内の地は、天朝切に之を夷狄に仮すを禁じたまふ。

而して幕府は五港を以て墨夷に許す。兵庫は蓋し其の一なり。
且つ聞く吾が君、吾が相は征夷の謀を是とせず、将に書を幕府に上りて之を諫争せんとすと。ここに於いてか吾が世子に江邸に在り、ひと或いは去留を以て世子の為めに危ぶむ。而して武門の大義は苟も去るべからず、去りて達せざれば、適々人の謗りを招くを知らざるなり。暢夫論議を此の間に建て、多く余の意と合ふ。而も其の精識なるに至りては、則ち余の及ぶ所に非ざるなり。暢夫の事を議するや、素と持重多かりき。近ごろは則ち振発凌励専ら気を以て之れを行るの者の如し、蓋し其の識の進むあるなり。玄瑞向に京に在り、便ち王事に死せんと欲す。東下の後に及んで、又大艦に駕し、黒竜江に赴かんことを謀る。其の事に遇いて難易を辞せず、身を奮つて之れを為すこと、率ね常に斯くの如し。然れども吾れ独り其の或いは多岐に失せんことを憂ふ。暢夫.玄瑞固より相得たり。暢夫の識を以て、玄瑞の才を行ふ、気は皆其れ素より有するところ、何をか為して成らざらん。暢夫よ暢夫、天下固より才多し、然れども唯一の玄瑞失ふべからず。桂.赤川は吾れの重んずる所なり。無逸.無窮は吾れの愛する所なり。新知の杉蔵は一見して心与せり。此の五人は、皆志士にして、暢夫之れを知ること熟せり。今幸に東に在り。暢夫往け。急ぎ玄瑞を招きて之れを道ひ、且つ之れを五人の者に語れ。七月十八日

高杉生家
「高杉晋作の生家」

高杉晋作は久坂玄瑞と共に、松下村塾の双璧と目された人物で、松下村塾へは安政四年に入塾した。二人は年齢も近く、共に素質に恵まれた青年であった。松陰は彼等が互いに長所を認め合い切磋琢磨するライバル関係におくことで二人の成長を期待していたのである。そこに松陰の個性教育のありかたの一面がある。二人が師松陰の遺志を継承して、幕末多事の中を志士として奮迅の活躍をしたことは幕末史を知る人には有名な話である。

この送叙は数ある松陰の送叙の中でも、とりわけ教育的見地から高く評価されている名文の一つである。(多分、杉蔵に与えたのと並ぶであろう)尊敬する師から、厚い信頼と激励.期待を込めたものが読み取れ、子弟教育の見本のような文であるばかりでなく、弟子として高杉暢夫が発奮し、使命感に燃えて活躍することになる。それは、後に松陰の「草莽崛起」の考えを継承した暢夫の「奇兵隊結成」となり、幕末史における長州藩の大車輪の活躍(尊王討幕運動)へと連なって行く。松下村塾における松陰の子弟教育(人間教育)のハイライトの一つとして、特筆される名文である。期待を一心に受け、発奮する暢夫の、その後の活躍がこうした松陰の教育の在り方から、維新回天の人材育成の手法の成果として、松下村塾を一躍有名たらしめた一端を窺うことが出来る。教育者松陰の面目躍如たる一面を知るに格好の史料でもあるのです。

思うに「高杉晋作」の幕末の活躍は、この送叙によって彼の素質が開花したに違いない。「吉田松陰」の優れた教育がなかったなら、幕末長州藩が西南雄藩の一角を占めることはなかったであろう。実は、この文稿は全てルビをふって学生と一緒に読めるようにしたものであるが、ブログに掲載するにあたって全部ルビを消去しました。多少時間を掛けて読んで下さるよう願います。

吉田松陰を学ぶ事は「人間学」を学ぶことと言われます。人は「しかるべき人から認められる」ことに喜びを覚えるものであります。これは、「老若男女」を問わずに当てはまるものと思われます。

「志を立てて以て万事の源と為す」と説いた松陰の人生観は、それを自ら実践したところに教育的価値があると思います。処刑前日に同じ文を二通書いて、門下生に『師の志』を託した、私心のない生き方が感動を起こさせ、涙ながらに、必死になって読んだ門下生の発奮の原点となったものと思われます。この『留魂録』こそ、松陰の生涯を賭けた『迫真の人間教育』であったのです。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂」の詩で書き出される『留魂録』については、別の機会に詳述したいと思います。
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