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『東行前日記』 連載③
【2012/08/19 23:26】 エッセイ
『東行前日記』③

十七日(安政六年五月)   圖賛の跋を作る。 


松陰正装画像


吾れ執拘せられて關左に送らる。
馬角羝乳、歸期定めなし。諸友謀りて、(松)浦無窮をして吾が像を肖らしめ、吾れをして自ら之れに賛せしむ。顧ふに無窮は吾れを知る者、豈に特だ吾が貌を寫すのみならんや。
況や吾れの自ら之れに賛するをや。嗚呼、吾れ去る
。諸友此れに對せば、宜しく隔世の想を為すべし。
吾れ即し市に磔せらるとも、此の幅乃ち生色あらん。


   ○
佐々木叔母に呈す
今更に驚くべくもあらぬなり兼て待ち來し此の度の旅

   ○
 密かに子遠・和作に寄す
吉田松陰とその門下24.3.25


時無韓淮陰    時に韓淮陰なくんば、
豈就酈生烹    豈に酈生烹に就かんや。
時無李衛公    時に李衛公なくんば、
豈幸唐儉生    豈に幸唐儉生を幸せんや。
鬼色疑有人    鬼色 疑ふらくは人あり、
頗似宣慰行    頗る宣慰の行に似たり。
人生必有死    人生必らず死あり、
願全青史名    願はくは青史の名を全うせん。
勿謂我受欺    謂ふなかれ我れ欺きを受くと
知己汝弟兄    知己、汝弟兄。
 此の詩別に久保清太に與ふ、我保兄に作る。

【用語】
和作 = 野村和作。入江杉蔵の弟。明治で神奈川県知事、内務大臣を歴任。子爵。
圖賛 = 松浦松洞の画いた肖像画に、跋文(特定の人に宛てた、文で賛の後部に書く)
己未 = 安政六年
關左 = 江戸
馬角羝乳 = 馬に角が生え、牡羊が乳を出すこと。不可能の例え。
吾が貌を寫すのみならんや = 私の容貌を画く丈でなく、私の精神迄画き出している。
幅 = 掛け軸。
佐々木叔母 = 松陰の父親杉百合之助の妹、佐々木孫右衛門の妻。
密かに = 同日、の子遠・和作への書簡にもこの詩あり。『吾れ若し道中又は江戸藩邸にて毒殺せらるるとも、長井(雅樂)の甘言に陥れられたと他友はいいもせよう、汝兄弟のみは義卿毒を知って飲みたるを知って呉れよ。人に告げずともよし、心に知って呉れよ。爰で涙が落ちた。此の詩は成る丈は諸友へ示さぬ積りなり。此の度長井の處置、実にその意を得ぬ』。とある。松陰と長井の関係が微妙だったことが解かる。
子遠 = 入江杉蔵。松陰が贈った字。野村和作の兄。禁門の変で戦死。村塾四天王。
韓淮陰 = 漢の高祖の功臣、淮陰侯韓信。淮陰の人。
酈生 = 漢の高祖の臣。酈食其(れきいき)。秦末の弁論家。齊の国に使して巧みな弁説で、その七十餘城を降した。韓信は不意に齊を討ち、食其は遂に齊王に烹殺(ほうさつ)された。烹は釜ゆでの刑。
李衛公 = 唐の将軍、衛国公李靖(りせい)。
鬼色疑有人 = 鬼のような人物がいるようであるの意。ここは長井雅樂が松陰を幕府の手に渡すために画策したと思って、長井を暗に擬している。
宣慰行 = 唐の忠臣顔真卿が奸臣廬杞に嫌われて、反将李希烈の宣慰使を命ぜられ任赴いたが、遂に殺されたことを言う。松陰の東行もこれと同じであると言っている。
青史 = 歴史。
知己 = 自分の心や真価をよく知ってくれる人。
我保兄 = 汝弟兄とあるところを我が保兄と書いたという意。

   ○
緒妹に贈る
妹・千代


心あれや人の母たる人達よかからん事は武士の常

   ○
 子楫に別る

君質如素絹    君が質は素絹の如く、
朱墨易受色    朱墨、色を受け易し。
君性如喬木    君が性は喬木の如く、
従繩自然直    繩に従って自然に直し。
知君畢生事    知るや君畢生の事、
尤得朋友力    尤も朋友の力に得るを。
此間非無人    此間人なきにあらず、
切劘報君國    切劘して君國に報ぜよ。

松陰岡部本24.4.23
(この肖像画が岡部本と言われ、門下生の岡部宛に画かれた)


【用語】
子楫 = (しゆう)、岡部富太郎。大原三位下向策を密告し、入江兄弟を入獄させた。
素絹 = (しろぎぬ)白い絹布。
喬木 = (きょうぼく)松や檜など、高くそびえる木の総称。
繩墨 = (じょうぼく)、墨縄の意。
畢生 = (ひっせい)一生涯を賭けた事業。
切劘 = (せつび)切磋琢磨に同じ。学友、同朋などがお互に戒めあって勉強し、向上すること。

※ 松陰の死後、文久年間に『航海遠略策』の国策(藩策=藩のとるべき方策)を上書して、藩はもとより、朝廷も賛意を示し、揚句には幕府にも採用さすべく、説明に行き、一時藩論や幕府も賛意を示した。内容は、公武合体政策にて国難を克服しようとする、井伊直弼の執政時代の政策を公にしたものであった。
※ 当時、国策として有為なものとして歓迎されるが、松陰の門下生や桂(小五郎)などの反論から、追い込まれ、最終的には藩論としても否定され、自刃した。

※、此れを読むと、松陰と藩論は異なっており、松陰は長井の奸計と思い込んでた。事実、長井は、帰国すると、松陰と合い、毛利藩に不利な証言をしないよう慫慂している。
従って、松陰が、長井の「奸計」と訝ったのも故なしとは言えない。


この頃から、長州藩内にて、藩論の「ゆれ」があったことがうかがえる。松陰の思想や行動が、「賛」に「郷党衆く容れず」とはこれらを意味する。いつの時代でも、先覚者への理解には、時間を要するものである。松陰の悲劇は、先覚者故であった。
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