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茨城県県南生涯学習センター【天章堂講座】①
【2012/12/30 12:29】 エッセイ
【天章堂講座】登場人物の概略①

2013年10月から開講される「茨城県県南生涯教育センター」の【天章堂講座】に登場する人物を、写真入りで概略説明を書いてみた。

茨城県と言えば、江戸時代に在っては「御三家・水戸藩」の最重要な藩であり幕末に建設された「弘道館」である。この弘道館は、広い意味で言えば「大日本史」編纂の流れから「水戸学の系譜に位置づけられる、「学問の府」であり、「日本三大庭園の一つ偕楽園」もほぼ同時期に、徳川斉昭藩主時代に成ったものである。従って、この講座名も「茨城県弘道館アカデミー」が総合的な名称で、「県民大学、天章堂講座、等の緒講座に細分化」されていて、「天章堂講座」は、教養、歴史を主とした講座の位置づけであるようだ。

そこで、最小限の説明と、写真を添付して概略をブログにも掲載して置く。この二枚の写真は、「弘道館」と「弘道館にある水戸学の象徴的な尊攘の書」である。
弘道館を訪れた人なら、必ず見たことがあるに違いない。ここには嘉永四年・東北旅行の途次立寄った「吉田松陰」の「漢詩」も保存されていて観光客や吉田松陰ファンを楽しませてくれる。


弘道館24.10.5尊攘(弘道館)


原則的には時系列を意識しながら構成したが、多彩な人物が登場する。

第1回、 徳川斉昭(出来れば水戸学の系や、藤田東湖、会澤正志斎も触れたい)。徳川斉昭は水戸藩第九代の藩主として、「天保の改革」を指揮し、藩政改革に顕著な実績を挙げた人物。「尊王攘夷の巨魁」としても知られる。ただ個性が強く、己の信念で改革を実行したが為に、反対派の誣告もあり、意味不明ながら幕府から謹慎を言い渡され、さらに安政の大獄では、大老・井伊直弼との対立もあって晩年は苦悩した。永蟄居という大名としては改易に次ぐ処罰を受けた。改革派のブレーンとともに推進した「天保の改革」は、藩政レベルのものだったとはいえ、これを断行した功績、そして天下の副将軍(定府:参勤交代がなく江戸常駐)として、ペリー来航以来、海防参与として幕政に貢献。幕末名君の一人として良いと思われる。

徳川斉昭24.10.5

第2回、 島津斉彬(幕末の名君たちと銘打ってあるので、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城も)。
薩摩77万石の藩主、島津斉彬は前藩主の隠退・隠居の実現が長引いたため、難産だった。43歳であるから、早ければとうじでは隠居もありうる年齢でもあった。しかし、世子時代からその見識、力量を認められ、待望久しい殿様の実現であった。藩の近代化を図り、薩摩を雄藩にした原動力は大藩の藩主という立場もさることながら斉彬の存在が大きい。雄図半ばで急死してしまったのが惜しまれる。この頃の名君と言えば宇和島藩の伊達宗城、土佐の山内容堂、越前の松平慶永らが挙げられる。その筆頭にあるのが島津斉彬であることは誰もが認めるにちがいない。

島津斉彬24.10.12

第4回、 佐久間象山と横井小楠、(幕末維新期の先駆的思想家として、先覚者の人生を紹介)。
ほぼ同年代に生まれ、幕末の先駆的思想家として活躍したが、先覚者というのは実像が理解されず悲劇的な人生の結末を迎えるもののようである。
象山は松代藩(準譜代)の生まれ、藩主は田安家出身の真田幸貫であった。真田は天保年間に老中(海防掛)を務めたことから、象山はその顧問として海防研究をすることになる。元来が朱子学者であるが、二度の江戸遊学の機会を持つ。勝海舟の妹と結婚。多彩な人脈をもつが、門下に米百俵で有名な小林虎三郎、松下村塾を主催して多くの俊英を育成し、明治維新の発火点となった吉田松陰がいる。松陰の密航に連座して蟄居、禁が解けて間もなく京都で暗殺される。一方横井小楠は、肥後熊本(細川54万石)の藩士の家に生まれる。時習館の秀才として肥後実学党を率いる。嫡子相続の時代にあって次男であった事から、藩内では恵まれぬが、縁あって越前藩に招かれ、藩政をリードした。藩主は松平慶永であることから、幕府への建言も行う。新政府の参与となるが、間もなく象山同様京都で暗殺されてしまう。

佐久間象山24.11.02

第5回、 吉田松陰『明治維新の発火点』となり【松下村塾】での教育と留魂録の精神等を紹介したい。
日米和親条約の締結された年の嘉永7年3月、下田からペリーの艦隊に渡米を企てるも失敗。この勇気ある行動は一躍吉田松陰の名を全国に知らしめた。以後、その刑死までの六年半は自由を奪われてしまう。類まれな教育への情熱は「松下村塾主宰者」として幾多の人材を育成する。高杉晋作、久坂玄瑞は「松下村塾の双璧」といわれ、幕末期の活躍は松陰の人材育成の手腕に負うところが大きい。
「草莽崛起論」の実践が藩から咎められて、再度の獄中生活を余儀なくされるも日本への侵略を阻止する情熱は最後まで衰えず、幕府否定の考えが「安政の大獄」に巻き込まれてしまい、惜しまれる人生の終結となる。若干29歳であった。門下生への遺書たる『留魂録』を残し、松陰精神の継承を託しつつ刑死。
膨大な読書と思索、著述を残し『吉田松陰全集10巻』が昭和十一年に刊行される。
この全集は、皇室に献上されるという貴重な書籍でもあり、幕末史および吉田松陰の生涯を余すところなく伝えている。
長州藩の思想的先駆者の役割は、それのみにとどまらず「尊王攘夷」を旗印として、幕末志士たちに大きな影響を与えた。

吉田松陰25.11.09

第6回、 井伊直弼(大老と井伊直弼、徳川斉昭との確執、一橋派への処罰、橋本左内も紹介したい)。
譜代大名の筆頭の家柄に生誕するが、14男ということから部屋済みでの生涯を覚悟するが、歴史の女神は直弼に藩主の座を与える。ペリー来航以来の難局を乗り切るために、時の課題に果敢に挑み、将軍継嗣問題、日米修好通商条約の調印を大老就任とともに処理するも、朝廷との齟齬から幕府権力の再興を期して、ついに「安政の大獄」を引き起こす。その処罰者は有力大名の謹慎、強制隠居に始まり、公卿、志士たちを厳しく罰した。徳川斉昭との対立が、水戸藩への峻烈を極めたことから、反動として、万延元年三月、登城の機会に報復の暗殺を企てた水戸の浪士たちによって横死する。いわゆる「桜田門外の変」となって幕府権力の衰退となり、動乱の時代の幕開けとなる。処刑された惜しまれる人材は、一橋派の越前藩士、橋本左内、吉田松陰らの幾多の人材を刑死させ、自身は死後も悪役となってしまった。

井伊直弼


第8回、 高杉晋作(「松下村塾の双璧、久坂玄瑞との対比、吉田稔麿や入江九一等」も語りたい)。
『留魂録』の遺書を残して刑死した吉田松陰の精神は、自らが育てた門下生に継承される。後継者の筆頭は久坂玄瑞と高杉晋作であることは、あまりにもゆうめいであるが、此の他に「松下村塾の四天王」といわれた吉田稔麿や入江九一らもいる。松陰晩年の考えは、幕府や諸侯を頼りにしていては、西欧に対処できる日本は覚束ない。「草莽崛起」に賭けるしかないというものだった。この考えは、門下生のよきく理解する所となり、難局打開策として長州藩の努力へとつながってゆく。とりわけ高杉晋作は「奇兵隊」を創設し、藩の正規の兵隊と異なる藩軍として長州征伐や戊辰の役に華々しい活躍をする。藩内の激しい内訌戦を勝ち抜いて、割拠論を主張して「功山寺の挙兵」はつとに有名である。一方の久坂玄瑞は、航海遠略策を是とした反論を潰し、尊王攘夷に転換させた。幕末長州藩の苦悩を卓抜な頭脳と行動力で打開し、志半ばの「禁門の変」で自刃。最も有能と言われたその才能を開花し切れず、惜しまれる人材として大成させたかった人物である。

高杉晋作25.12.07
今回が第1回目で、続いて登場人物が続々と出てきます。
3回位の分割で書きます。
急遽、事情があって女性に関する記事も追加予定です。
順番も変更になります。
幕末にあっては、芸者幾松。
明治にあっては女子教育の先駆者・津田梅子を登場させます。
また、鎖国に終止符を打たせたM・ペリー、やT・ハリスも取り上げます。<つづく>

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