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茨城県県南生涯学習センター【天章堂講座】③
【2013/01/03 15:20】 エッセイ
【天章堂講座】登場人物の概略③

弘道館24.10.5


前回に引き続き、書き連ねます。今回で最終回となります。、近代日本の「扉」を開いたペリーとハリスの米国人二人から書き起こします。

第3回、「ぺりーとハリス」(鎖国日本の扉を砲艦外交によって終焉させ「日米和親条約」を結ばせたペリーと「日米修交通商条約」を締結したハリスについて)。
旧暦嘉永6年6月3日、アメリカ合衆国「東インド艦隊」司令長官MCペリー准将は軍艦四隻を率いて浦賀(横須賀)にやってきた。
幕府の浦賀奉行「戸田氏栄」は外交問題は「長崎で行う」との旨を伝えたが、ぺりーはそれに応じるどころか、強制するなら一戦を交えると恫喝した。軍艦に備え付けられていた大砲によって江戸城は破壊され、当然米国が勝利するとの言辞で幕府を恐喝した。これを「砲艦外交」という。幕府は、やむなくこれに応対、「久里浜」に上陸させ米国大統領親書を受け取った。ペリーは僅か10日足らずで「来年、新書の返事を受け取りに再度来航する」と言い残して、浦賀を去った。翌年1月、約束通り再来日し、3月3日「日米和親条約」が締結され、長きに渡った日本の鎖国体制は終を告げた。この3月、吉田松陰姉弟が下田港に停泊中のペリーの軍艦に夜陰乗り込み、密航を企てる事件が起きた。いわゆる幕末動乱の幕開きである。

ペリー

一方ハリスは日米和親条約に基づいて、開港された下田に安政3年7月来航し、「玉泉寺」に日本最初の総領事として着任、前庭高く「星条旗」が掲げられた。日本の【ぶらかし】外交の交渉態度に、憤怒を感じつつ交渉のテーブルに着くのを待ったのであった。この間に「唐人お吉物語」の悲話も生まれている。
やがて、江戸入りが叶い、将軍家定にも謁見が叶っての安政五年遂に「日米修好通商条約」が締結された。これには待たされ続けた挙句の、米国との条約締結が、英国、仏国とのに先立つことの締結が有利である(最恵国待遇を指す)との論理と、ハリス自身の焦りとが混在した中でのギリギリの交渉であった。
この条約締結に当たって「勅許」問題が急浮上し、老中堀田正睦の上京と、「再検討指示」の実質不可の裁断であった。この責任を問われるかのように堀田は老中辞任、替わって井伊直弼が大老就任し矢継ぎ早に二つの大きな課題に決着をつけた。将軍継嗣問題と条約締結であったが、井伊の採った判断は紀州藩の徳川慶福(後に家茂)、条約は締結後に「宿継ぎ」で朝廷に報告するというものであった。ここから無断勅許問題、「戊午の密勅」、尊王攘夷、安政の大獄、公武合体策、「桜田門外の変」、等々が続発し、幕府政治は難局を迎える。
ハリス

第七回、「天璋院篤姫」と「皇女和宮」(二つの政略結婚と公武合体策による朝幕関係修復の狙い)。

後継者をめぐって「お由良騒動」(高崎くずれともいう)に揺れた薩摩藩の後継「藩主」は島津斉彬の就任で決着がついたが、藩主の世子時代から英明の誉れ高い斉彬は世評に違わぬ施策を「近代化路線」で矢継ぎ早に打ち出す。薩摩藩が「幕末の雄藩」として、中央政界に歩みだす第一歩でもあった。ペリー来航に対し、対応策の意見書を募った老中・阿部正弘は幕府の外交特権を放棄することになった。折から、将軍継嗣問題も浮上して、幕府は二重の難題解決に直面した。難局に当たるには将軍は能力を重んじるべきとの考えから斉彬は、一橋慶喜を後継者とすべきとして、一族の篤姫を宗家の養女とし、さらに「近衛家」の養女とした。これで将軍家定の「御台所」に送り込み、腹心の西郷隆盛に実現を託すべく京都や江戸に周旋を命じる。しかし大老井伊直弼の登場によって挫折してしまい、それを追うかのように安政の大獄を引き起こす。一橋派の大名たちをはじめ反幕府の関係者は「戊午の密勅」の関係者と共に朝廷や藩士たちを処罰する。
天璋院篤姫24.12.30

とりわけ、水戸の「徳川斉昭」との対立は一連の反幕活動に疑いを持ち、厳しい処罰となり、翌年の水戸の浪士たちの反感から「桜田門外の変」が発生。幕府権力の凋落を立て直すべく、朝廷との協力体制をとるべく「公武合体」政策が打ち出される。その「象徴」が孝明天皇の妹・「和宮」と将軍家茂の婚姻であった。完全な政略結婚の計画である。既に婚約していた和宮であったが、幕府は再三にわたって要請し、遂に孝明天皇の同意を取り付けることに成功する。これが尊王攘夷派をいたく激高させることになる。
それ故、これを推進した老中「安藤信正」は「坂下門の変」にて襲撃される事件が起きて、幕府の政治権力は一層衰退を印象付けることになる。
両者とも、幕末期に遭って「運命に翻弄され」るが、さらに「戊辰戦争」で官軍への救済措置の嘆願に尽力する。
こうした努力も奏功してか「江戸城無血開城」は実現し、陰での尽力は皮肉にも『嫁ぎ先からの嫁入り前』の藩や朝廷への嘆願書を書くことになった。そうして明治新政府が発足するとともに、歴史の表舞台から去るという「悲運に人生」を送ったのであった。
皇女和宮24.12.30

第十回、幕末・明治を彩る女性たち「芸者・幾松と津田梅子」ほか(幕末維新期は、一面対立による破壊と建設の面を持つ。そして、陰に陽に女性の支えや近代化にも貢献した)。

長州藩の「志士」の代表格であった桂小五郎(木戸孝允)は文久年間に芸者・幾松と知り合う。京都三本木「吉田屋」から舞妓に出た幾松は美しく利発で、芸事とりわけ笛と踊りに秀でていた。このため「幾松」の二代目として有名になり、美丈夫でもあった桂小五郎とのロマンスとなる。ここに至るまでは京都山科の富豪ひいきにしていたのを、桂の情熱が彼女の心を動かし、やがて実質上の夫婦となった。長州藩が京都において困難な時期に、幾松は献身的に桂に尽くす。幕末の志士たちは常に「死」と隣り合わせだった。桂が危険に遭遇しながらも維新まで生き延びられた陰に幾松の機転による献身があったのは、幕末恋物語の語り草である。明治になって政府の要職に就いた木戸孝允が、婚姻による正式な妻としたのは明治3年頃とされる。幾松から「木戸松子」となった夫人は、夫を支え続け、看病しつつその死を看取ってからほぼ10年、二人を赤い糸で結ばせた思い出の地「京都」にて生涯を終える。夫婦ともに40代の生涯であった。

幾松


一方、長州藩が朝敵の汚名を着せられた禁門の変のあった年、江戸・牛込で生誕した梅子は明治四年「岩倉遣欧使節団」と共に渡米する。五人の女子留学生の一人として七歳の最年少であった。十一年間の留学で得た英語力は、伊藤博文の推薦で華族女学校の英語教師として、さらには明治女学院、女子高等師範学校(現御茶ノ水女子大)の教授を兼任する。彼女の名を冠した「女子英学塾」は、現在の「津田塾大学」である。福沢諭吉が「英語」の勉強で世界の書籍を読み見聞を広げたように、津田塾も「英語」が看板になっており、ともに「塾」が校名の正式名称として今日まで受け継がれている。

津田梅子

以上、取り上げた人物を25年10月から26年2月にわたって「天章堂講座」で【幕末維新のヒ-ローたち】として15回の連続講座で取り上げます。
近代化への序曲からはじまり、日本が国際社会に登場した「明治維新」への変革過程で様々な人物が、時代との格闘をしたり、時代の要請にこたえる努力をした先達の足跡をたどりながらの連続講座である。
「歴史は人が作り、人が動かす。しかし、個人の願いどおりには進展しない」。
そこに、人間が『どう生きたか』を紐解く意義があると思う。

「歴史を学んで、歴史に学ぶ」一助となればと願っている。









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