長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

『人は狂頑と譏り郷党衆く容れず』の意味
【2013/01/14 13:06】 エッセイ
自賛肖像文に見る「松陰の胸の内」

安政六年五月、二度目の野山獄に在った吉田松陰に對し、幕府から「召喚命令」が届いた。 此れを伝えに行ったのは、松陰が尊崇してやまなかった「兄・梅太郎」である。 親族の胸中は、如何ばかりであったろうか?
それからの十日間近く、松陰は慌ただしい日々を過ごした。 生還を訝った「久坂玄瑞」の発議で、門下生の「松浦松洞」に肖像画を描かせた。同時に小田村伊之助の発議で「自賛」を書かせ、跋文(特定の人物宛の文言)もそれぞれに宛てて書いた。
今に残る有名な『吉田松陰』の肖像画である。 当時は、写真がまだ一部にしか普及せず、画によって我々はイメージするのみである。
この自賛文に『人は狂頑と譏り、郷党 衆(おお)く容れず』と書かれている。

吉田松陰自賛画像2012.4.13


これは、先覚者の運命と云えるかもしれない。萩の人々は吉田松陰の行動や考え方を受け入れてくれていない! というのが松陰の本当の胸の内であった。
これを裏付けるものとして『村塾零話』という、門下生の回顧談を編集したものが「吉田松陰全集」に収載されている。そこには「何でも職にありつくには松陰先生のところで学ぶことがよいと思っていた好評の内容と、反対に松陰の塾に通うことはけしからん、と反対された回顧談や、政事(政治)の事を学ぶのを除外する条件で、やっとの思いで松下村塾に通った」門下生もいたのであった。高杉晋作などは親の反対に逢い、夜にそっと抜け出して通ったというのは有名な話である。

松陰は「東北の海岸防禦視察」の大旅行を肥後の友人・宮部鼎蔵とともに挙行したが、この時「過所手形」という、藩主の允可(認印)のある身分証明書(他国を通る時に、関所等で提示)が発行されないまま(実は反対者がいた)、出奔したのであった。
過所手形25.1.14


これは「脱藩」と見做される生命の危険(打ち首もありうる)を伴った行為であったから、北辺視察の旅行から江戸に戻った時、処罰を検討するので、それまで帰国(萩の実家)して謹慎せよ、そして裁決を待てという条件付きの強制送還であった。
此れを知る人の中には「狂」の行為とみなした地元の人達もいたようである。松陰の修業時代の教師には「脱藩」を最後まで貫かなかったことを責めた、山田右衛門のような人物もいた。

そして二年後の嘉永七年三月、「下田蹈海」に企ての失敗から、幕府から裁決(国元蟄居)され、さらに萩藩の政府は幕府の裁決より重い「藩獄収監」を命じた。
松陰蹈海の図24.3.20


こうした経緯から、松陰のことを白眼視した地元の人たちが多くいた事であったことを松陰は承知していたのである。

何時の時代でも、先覚者の理解はされにくいものである。そういう意味では、松陰の師「佐久間象山」もそうであったし、同時代に生きた「横井小楠」もそうであった。この二人は、誤解された結果で以て「殺害行為」の被害に遭った。つまり暗殺である。それも同じ京都で。大村益次郎も近代軍制改革が誤解されて、襲撃され、この時の傷が原因で死去の運命にあった。ここが主義主張の難しいところである。そうかといって自己の信念を曲げて、妥協や迎合をしていたのでは『先覚者』とはなりきれない。

松陰の「人は狂頑と謗り」という意味は、普通の人達(市民)からは行動の意味するものの理解が得られなかったことをさしている。「郷党衆く容れず」の意味も、それを強調するものであろう。つまり危険思想の持ち主故、近づくことを嫌った郷里の人達の姿なのであった。現代の感覚では、「思想犯」や「政治犯」に近い意味で、突飛な解釈は不要と思われるが、何せ徳川封建時代のことである。覇道はこうした思想犯に対しては、厳罰で処して来るものなのである。「宝暦・明和」事件がそれを如実に物語っている。
山県大弐25.1.14


竹内式部や山県大弐の処罰は覇道の常道(体制否定)の処断であった。徳川の独裁政権維持のためには、こうした処置を採った。

だが、松陰はひるまない。「生死」を度外視して、己の信念(日本の国体護持と独立保持)を貫く強固な意志は、いざとなれば命をも恐れない。
こうしたところが「陽明学的」な側面を持っている。自己の信念の完全燃焼は、陽明学の特徴である。「人賢愚あれども一二の才能無きはなし」との『福堂策』に見る人間観も、孟子や王陽明を学んだことから来るものと解してよいだろう。

それは安政六年の高杉晋作への書簡に「丈夫死すべきところ」との返答にも当てはまる。
高杉晋作25.12.07


「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業のみこみあらばいつでも生くべし」のことばは、功名を立てんとするものと対極にある考え方で、陽明学的である。「名利を求めることを嫌悪した松陰の本音」でもあっただろう。

江戸への旅立ち仕度に忙しい松陰であったが、後世に遺したものはつてつもなく大きく、そしてまた「典型的な」日本人として「大和魂」(誠の心)を失ってはならないと、遺書ともいうべき『留魂録』で強調したのである。
関連記事
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kinnhase.blog119.fc2.com/tb.php/245-ef7c98e3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR