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『昭和の大横綱・大鵬関』を偲んで
【2013/01/19 23:24】 エッセイ
昭和の大横綱・『大鵬』逝く

昭和の大横綱「大鵬」さんが、本日逝去された。 私よりも6歳年長であるが、私の人生を励ましてくれたことに、心から感謝したい。
大鵬の土俵入り③


大鵬は十両時代に連続13勝を挙げて、昭和35年1月場所に弱冠19歳で新入幕して初日から11連勝した。日本相撲協会は、当時としては異例の小結だった「柏戸」との取り組みをさせた。差し手争いの激しい攻防の揚句に大鵬が有利な組手に為ったかと思った瞬間、柏戸の咄嗟の左下手出し投げに、大鵬は伸びきった体を預けるようにしながら、一縷の望みを託して粘りながら、前のめりに崩れ落ちた。これは今日でいう「スローモーションビデオ」を見るが如くであったという。はるか後年、私はNHKの特集番組で何度か拝見した。
たしかにその通りの決まり手だった。
その場所は12勝3敗で「敢闘賞」を受賞した。翌3月場所は、前半に負けが混んで最終的には7勝8敗となったが、大鵬の土俵人生で、皆勤して初めての負け越しである。十両以前に一度負け越しを経験しているほか、あとにも先にも「負け越し」はたったの二度である。

そうして昭和46年の引退までの正味12年間、最低でも1度は賜杯を手にした。入幕した年から、引退した年まで毎年賜杯を抱いたのは、あとにも先にも大鵬ただ一人である。
称える形容詞が簡単に出てこない。
大鵬の土俵入り


( 鵬が将に翼を広げて羽ばたくような大鵬の美しい土俵入り)


昭和20年、敗戦と共に樺太から命からがら引き上げてきた「納谷幸喜」少年、日経新聞に連載された『私の履歴書』を読むと、間一髪の命拾いをしながら母子ともに「内地」に引き上げてきたとのこと。以後は、その日を生き抜く苦労の連続であったという。

差別感の強かった当時に逢って、ウクライナ人を父に持ち、母は日本人という、当時の言葉では「混血児」としての偏見に悩みつつ成長を遂げたようである。それが、結果的には人間としての「なにくそ人間」としての根性を育成したようである。

日経新聞の私の履歴書は、掲載対象にリストアップされるだけでも大変な名誉である。人知れず苦労を強いられてきた運命に耐えて相撲道に打ち込んだ。 それは、大鵬さんの人生を賭けた「反骨の魂」でもあったろう。
近年、私は北海道旅行を3度行った。弟子屈町の川湯や訓子府を観光バスが通る時、密かに大鵬さんを偲んだ。こんな山深い所で幼少年時代を過ごしたのだとの感慨ひとしおであった。営林署という山間に逢ってはわずかな職に就いて「定時制高校」に通ったのも「なるほど」と思わざるを得なかった。誠に辛い要素幼年期を過ごしたに違いないと回顧した。
柏の囲碁戦鵬

(仲良しだったライバル柏戸と囲碁を楽しむ大鵬と柏戸)
我が家には昭和35年1月の時点でテレビはなく、ラジオだった。柏戸との一戦は差し出争いしか聴こえなかった。歓声がアナウンサーの実況を聞き取れなくしてしまうのであった。
勝敗はハラハラドキドキして待ったが勝利者は柏戸であった。だから、ラジオではその情況推移がイメージ出来なかった。数年後NHKのビデオで初めて見た時、ああ・そうだったのか!とはじめてその時の情景がわかった。
カメラのフラッシュが沢山で、勝敗の決まった瞬間は大鵬の手が土俵についたのが判然としない記憶がある。

そして、また何年か後に南北海道へ旅した。こちらは大鵬の横綱最年少記録を破った北の湖の出身地である。有珠郡壮瞥町である。洞爺湖からほど近いところである。
二年続けて「大鵬」「北の湖」の故郷を訪れたのであった。千代の山が「道産子横綱」第一号となってから、昭和29年の吉葉山、北の富士、北の湖、千代の富士、北勝湖、大乃国、と連続して横綱が出ている。
映画にもなった「涙の敢闘賞・名寄岩」も忘れてはなるまい。
思うに、北海道は寒さが厳しい為に、日々の生活の厳しさに耐える力が「生活史」的に身に着くのではないかと思える。千代の山やそのスカウトになる千代の富士は「福島町」であって、北の富士の出身の旭川とは異なる。松前藩の支配地であった福島町と、明治の開拓団によって開かれた場所とはその趣を異にする。
大鵬の雄姿


ともあれ、大鵬さんの死去の情報は残念至極である。秋田の旅館の娘さんとの結婚にまつわる話は、芳子さんが健在であるから書かない。
私の履歴書で大鵬自身はいう。「私を天才というのはあたらない」と。
私に言わせれば「柏戸さんこそ天才だと」いうのである。
努力天才に勝るとは、こういうことで大鵬さんは、このことを声を大にして言いたかったのだろうと思う。
そして「功成り名を遂げて、おしまれつつ引退した」昭和46年。奇しくも私が大学を卒業して社会人1年生の時である。時あたかも次世代を担う「北の富士」と「玉の海」が台頭してきており、安心して後事を託せたのは幸運だったと云えよう。そして、相撲協会は栄誉ある「一大年寄」として「現役のしこ名」を認めたのであった。
時は廻って大鵬は「2009年」、国民として栄えある「文化功労者」となった。一スポーツ人と言うことなかれ、日本人の誇りなのである。因みに文化勲章は文化功労者から選ばれるのが原則である。同い年の王貞治さんの国民栄誉賞とともに価値あるものである。

ライバルと称された「柏戸」が、58歳で死去した時、「あたりをはばからず」に男泣きした。そして、柏戸との最後の対面の時「おい、何やってんだよ!」とつぶやいたとも伝えられた。
横綱柏戸25.1.19

「努力の人生」は人の何倍もの稽古を積んだと回顧している。
「柏戸さんに追いつけ追いこせ!」を、目標に人知れず稽古に励んだ.
同時期に柏戸、栃の海、佐田の山といったライバルがいたが、ほとんど独り占めに近い成績を残した。天晴としか言いようのない「努力・努力」の人生だったようだ。だから「忍」と言う文字を好んで揮毫した。つまり、「心」の上に「刃」と書いて忍である。忍耐と努力の人生。立派の一語に尽きる。
大鵬自伝セット写真

此のことは称えても余りあることである。大鵬さん、安らかにお休みください。と、頭を下げるのみである。

誠に努力奮闘の人生を歩まれた大鵬さんに、拍手喝采をもってこの記事を終えたい。合掌。
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