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「桂小五郎」と「高杉晋作」
【2013/03/04 23:40】 エッセイ
「桂小五郎」と「高杉晋作」・「伊藤博文」

幕末史の長州藩を代表する「志士」として、この二人(伊藤は除く)は欠かせない代表的な人物である。桂は「吉田松陰」が、長州藩の「藩校」である「明倫館」で「山鹿流兵学」を教えていたときの門下生であるから、この二人の関係は「松下村塾」での門下生よりも長い。したがって、桂は「松下村塾生」ではなく、彼らの兄貴分としての存在であった。反面、松陰の相談相手に近い存在であったと考えられる。
松陰は松下村塾主宰にあたっては、門下生と教師との立場を時に垣根を高くしない工夫もしていた。だが、それは一般には殆ど知られていない。

桂小五郎は大政奉還から廃藩置県までは長州閥の代表的な立場であったが、此れを為し遂げてからの人となりは、まるで人物が豹変してしまったかのように事績が語られず、幕末の颯爽とした志士のイメージはない。
「岩倉遣欧使節団」に「副使」として随行して出発までの、明治維新史上に大きな足跡を残したことに対して異論をはさむ人は多くはあるまい。
木戸孝允26.02.01


事実、桂(維新後は木戸孝允)なくして明治新政府は機能しなかったと云っても過言ではない。では、何ゆえに明治四年以降、その存在感を示せなかったのか。
此れを、明確に語る史料・書籍は殆どない。だが、関連書籍を読みこなすうちにそれが浮き彫りになって来る。そのカギは「伊藤博文」なのである。
世渡り上手な伊藤は、自分の身分では幕末期に活躍する才能があっても、足軽という身分制度に抹殺されてしまい、幾多の努力も伊藤の功績にはならなかった。つまり、使い走り的な「便利屋」としてしか扱われなかった。随分辛い思いをしたであろうことは、容易に察せられる。しかし、幸運はどこで待ち受けているかわからない。伊藤自身も、その行く末に対して自信ある将来像としての「伊藤博文」に明治新政府での明確なリーダー像は持ち得なかったに違いない。

かつて吉田松陰が「利輔はなかなか周旋家になりそうな」と評価したのは有名な逸話である。事実、松陰の見通し通り「伊藤博文」は政治家として大成した。千円札の肖像にも登場するほどまでに功成り名を遂げた。「今太閤」ともてはやされる所以である。
さて、その契機はどこにあったかである。それを解く鍵は「岩倉遣欧使節団」としての随行にあった。ここで、同行した大久保利通と木戸孝允の人物鑑定を怠りなくやって、幕末以来の恩人である木戸孝允を彼は殆ど見捨てるのである。そうして「大久保利通」に近づくのである。

伊藤博文26.02.08


つまり、伊藤の人物鑑定が巧みに行われていたのであるが、このことについては大久保も木戸も伊藤の心中に気付いていない。それは帰国後の行動によって明るみに出る。解かり易く言うと伊藤博文は機を見るに敏で、木戸よりも大久保に賭けたのである。事実、大久保が内務卿になって、明治新政府の最高実力者として君臨した時に伊藤は、それとなく大久保に尽くしたのであった。ここは、なかなか見抜きにくく、そこが伊藤の「巧妙」なところで、明治11年、大久保亡き後も大隈重信に一歩譲った形で時を待った。この時を待つ姿勢こそ、政治家や権力者に必要な資質なり思考態度なのであった。巧妙に人生航路を彷徨したが故に「明治14年」を期に大隈追い落としを実現したのであった。具体論は、後の機会に俟ちたい。

さて、掲題の高杉晋作であるが、実は高杉も桂も地元萩に在っては甚だ評価が低い。江戸期にあっては、身分制度が厳格であったのと裏腹に「家名の誇り」を継承していくのが嫡子としての義務でもあった。長州藩にとっては「大組」という中級の家格であった高杉家は「指月城」からほど近い位置に、中級家臣団の住居があった。今に残る、萩市内の「菊屋横町に「高杉晋作」の住居が保存されている。通り一つ隔てて桂小五郎の住居も保存されている。高杉家は毛利元就以来の譜代であった。この譜代の名門意識は高杉晋作に生涯ついてまわる。奇兵隊の総督としての後任であった赤禰武人に対する、殆ど侮辱に近い表現がそれを物語っている。つまり、名門譜代と下級武士(赤禰の出自はそれ以下)とは超え難い身分制であった。そして、俗論派への迎合を模索していた赤禰に対して「売国奴」的な態度であるとして糾弾し、自刃に追い込んだのであった。
高杉晋作25.12.07

格式高い名門高杉家の御曹司として、一人息子の晋作は「我が儘放題」に育てられた。松下村塾にあっては、別格の人物であっただけに、そのプライドたるや他の塾生を圧し、ある種の傍若無人の振る舞いが門下生達から浮き上がってしまったのであった。安政六年、吉田松陰と桂小五郎は、高杉の行末を心配した。決め手は松陰の教育的配慮に満ちた言葉であった。
松陰正装画像


俗に「角を矯めて牛を殺す」という俚諺があるが、松陰は高杉の欠点を矯正するより、有り余るすぐれた長所としての能力に賭けるとして桂を説得したのは有名である。小さな短所に目をつむり、優れた長所をこそ発揮させるよう導いていくべきだとして、「十年後に國家の大事」を謀る時に、僕は高杉に相談して共に国事行為を起さん。といって桂を納得させたのであった。松陰の人間観を垣間見る素晴らしい逸話である。おそらく吉田松陰の魅力はこうした所に人としての真髄があるのではなかろうか。

果せるかな松陰なき後の「松陰精神」を、危険を顧みず受け継いで実行して見せたのは「高杉晋作」であった。松陰の慧眼は正しかったのである。高杉のそれは、松陰の志の何たるかを熟慮、知悉していたのであった。それ故に高杉は、維新直前に命を落とした未完成の魅力が、今日なお彼の人気を保持しているのかも知れない。
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