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江戸時代の平和を追億して
【2013/03/26 20:15】 エッセイ
『閑話休題』のままに

今年の10月1日から始まる「天章堂講座・幕末維新のヒーローたち」の準備に追われている。史料の蒐集検討が大変である。
2013年3月5日に「土浦市」にある「茨城県県南生涯学習センター」の事務局を訪問して来た。
常磐線土浦駅前にある施設であるが、商業と文化施設とが一体になっている。
「天章堂」の命名由来は、江戸期の土浦にあった「寺子屋」の名前に因んだそうである。 寺子屋は庶民の学び舎で、江戸時代は「読み・書き・算盤」を主として教えたのである。
茨城県の江戸時代と言えば、誰しも思い出すのが「水戸黄門」である。「黄門」という呼称は唐の中納言の別称であるので、水戸黄門に限らないが、何故か水戸黄門は「水戸光圀」より親しみの持てる名前となっている。
「勧善懲悪」をモチーフとしたTVドラマや、小説または読み物の強い影響であろう。そんなことから、江戸時代の長い平和の礎となった「江戸城の防衛」に思いを致しながら、思いつくままに書き綴ってみよう。
寺子屋25.3.26
                     (寺子屋)

江戸期の土浦藩は藩主の入れ替わりが多く、江戸からの後方に存在した「御三家・水戸藩」の前衛役も担っていたのであろうか。霞ヶ浦に隣接するこの都市は、首都への通勤圏として所要時間から判断すると北限に位置する。新幹線が開通するまでは、この状態が続くのであろう。近年の地震帯もしんぱいである。
江戸からの30里四方近辺は、匆匆たる大名の配置が行われている。

江戸城25.3.28
                      (江戸城)

徳川の「攻守」にわたるバランスのとれた統治体制には、驚くばかりである。因みに列挙してみよう。先ず北の守りの要である水戸。御存知「御三家」で天下の副将軍である。宇都宮は譜代名門奥平(徳川と縁戚)や戸田家である。何れも徳川にとって「任せて安心」の家柄・大名である。前橋は松平であり、館林は5代将軍・徳川綱吉が一時統治した「御両典」の名門で、甲府と並ぶ特異な名門である。西の押えは「小田原藩」で、初期の功臣・「大久保忠世」の系譜である。一時期交代があったが、大老に相当する立場であった大久保忠世は重臣中の重臣である。つまり、水戸街道、奥羽海道、中山道、東海道の要所に信頼する大名を配置した。西南雄藩は幕末になって徳川氏に牙をむくが、これらを二重三重に守るべく、京都、大阪に睨みをきかすとともに紀伊、そして筆頭の御三家尾張にそれぞれ徳川を配置した。江戸の守りと共に東海道を押えたのである。唯一の弱点は「海防」であるが、これは家康の時代にはそこまで読めなかった。
徳川家康25.3.28


だから、家康の読み切れなかったものは二つある。一つは海への守り、もう一つは経済成長による百姓の貯蓄と商業の発達。
これだけは徳川家康といえども時代の子である。しかも商業の発達には「参勤交代」と表裏一体の関係なのは皮肉な結果となった。また、「北前船」に代表される海運、特に「下関」を天領として押えなかったことが、上手の手から水がこぼれた結果となった。誌に臨んで西南方角をにらみながら「往生」したといわれる。不安が二世紀余り後に現実のものとなった。
ペリー


こうしたことから「ペリーの来航」によって海防の虚を突かれたのも皮肉である。西洋に勃興した「産業革命」と資本主義まで考えが及ばなかったのは仕方あるまい。
徳川幕閣の怠慢でもあり、鎖国体制の盲点で「国内向け」の政治と、前例を重んじる「保守主義」が、表面上の「平和」を保ったといえる。もっといえば「元和偃武」に胡坐をかいていたのである。徳川幕府の統治苦悩は、前半の七代将軍までが覇道の余韻を醸し出して安泰だったが、吉宗以降は米沢藩の儒者・藁科松伯が睨んだ通り『そろりそろりと天下のゆるゝ兆しにや御座候』(上杉鷹山公記)と、時代の危機へと向かっていたのであった。これが宝暦年間であるから徳川幕府開府から150年、マラソンに例えれば折り返し地点にあたる。
水戸藩に関心を抱き、天章堂講座の準備に取り組みながら考えたことを書いてみた。
江戸時代をどう評価するかは「史観」によるのであるが、功罪共に両面から見ることが必要である。


幕末の安政年間に「ハリス」が通商条約を締結交渉にあたり、治外法権を設けたのは「刑法」が西欧では考えられない「武士階級の勝手な法典」と目に映ったといわれる。人権思想の発達してない日本国の封建制度の時代は、正しく前近代的なものであった。「切り捨て御免」や「ハラキリ」は、人権を「血」を流して勝ち取った西欧では、野蛮に近い印象だったのであろう。中公新書の『江戸の刑罰』(石井良助著)を読んで見ると面白い。
松陰先生24.3.31


その点では『福堂策』を著述した吉田松陰は、ヒューマニズムの立場から「懲罰から悔悛へ」と教育刑の認識を持っていた。これは「罪を憎んで人を憎まず」に基いていることは間違いあるまい。この考え方は優れて近代的なものだが、松陰はどこでそれを知ったのか?膨大な読書量をこなした松陰ならではのことである。

さて、閑話休題に「つれづれに」書き綴ったが、調べたいこと、読んで見たい書物等々が限りなく湧出して来る。人間は健康で、元気が一番の証拠かもしれない。

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