長谷川勤のインフォメーション・ブログ
維新の先覚者「吉田松陰」研究のやさしい入門ブログ

プロフィール ×

kinnhase

Author:kinnhase
長谷川勤のインフォメーション・ブログへようこそ!


最新記事 ×

最新コメント ×

最新トラックバック ×

月別アーカイブ ×

カテゴリ ×

誇り高き人『高杉晋作』
【2013/04/01 23:39】 エッセイ
『高杉晋作』の誇り

幕末の風雲児・「高杉晋作」は松下村塾で「久坂玄瑞」と並び称された逸材であった。
元治元年(1864)12月15日の「功山寺挙兵」によって藩内の対立派(俗論派)の打倒をめざし、成功した逸話は、彼の生涯におけるハイライトの一つである。

高杉晋作25.12.07


この元治の内戦に勝利し、かねてからの持論であった「割拠論」を実現した。高杉は俗論派の幕府恭順の考えがどうしても受け入れられなかったのである。
この結果、萩藩は正論派(革新派)が藩内権力を握り「第二次長州征伐」に対して、敢然と立ち向かうことになる。この第二次長州征伐は、萩藩では「四境戦争」と呼称されるように、長州(周防・長門)の国境の四方面での幕府軍との戦いであった。

薩長同盟によってグラバーから薩摩藩経由で購入した「近代兵器」と「士気」の高さ、幷に正規兵のみならず「奇兵隊」を始めとする「諸隊」の活躍や、戦争指揮官としての大村益次郎等の活躍が大きかったのであった。つまり毛利藩として一所懸命そのものであったから、一枚岩となって「団結は力なり」を実現させたのであろう。烏合の衆としての征長軍とは雲泥の差があったであろうことは、誰もが首肯することと思う。将に「三本の矢」の元就の教訓そのものだったし、幕末になってそれが発揮されたのである。
大江広元


「丈夫(武士)死すべき処如何」と発した問いに「生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし」との松陰の解答の通り、乾坤一擲の勝負を挑んだのであった。だから高杉は、その時が来るまでは、逃亡も辞さなかった。
結果は御存知の通り、長州藩の勝利となり幕府はいよいよ終末を迎え、斃れることになる。この勝利の報を聞きながら、結核のために息を引き取るのである。

この最期の姿は土佐藩の坂本龍馬と「好一対」であろう。ともに、自らの使命を果たし終え、「維新の夜明け」を確信したのだ。高杉は愛人に見守られながら病死する。完全燃焼だった。一方の坂本龍馬は大政奉還の実現を見届け、新政府の青写真を描きながら、京都「近江屋」で僚友の中岡慎太郎と話し合っている最中に、突然の刺客に襲われて暗殺されてしまった。共に慶應三年という、この年の12月9日の「王政復古の大号令」が発せられる直前であった。

さて掲題の件について語ろう。高杉家は萩藩中の「大組」という藩の高級官吏を輩出できる、中位の藩士の家柄である。事実、高杉晋作自身も藩官吏として重要なポストを務めた。
高杉家は「毛利元就」以来の譜代の家臣であった。
したがって高杉晋作は、元就の本拠地である安芸・広島以来、連綿と続く毛利家の名門藩士の誇り高き「毛利の臣」である。
毛利家


因みに「大組」というのは「一門」・「永代家老」・「寄組」に続く士席(士分格)である。松下村塾の主宰者であった吉田松陰は「無給通り」という下級藩士で、高杉と比べものにならない家格である。一定期間松下村塾に在籍した中では、高杉は筆頭のような家柄であった。桂小五郎も久坂玄瑞も及ばない家格の出身なのである。
そのこともあってか、時に「長幼の序」を無視し、村塾内で傍若無人の振る舞いが多く、頑質ゆえに師の松陰や、客分の立場であった桂が心配して、晋作の将来を憂慮したことが松陰全集に記述されている。
松下村塾の塾生仲間からは、こうしたことから晋作は不人気であった。
(吉田松陰全集:村塾零話)
松下村塾24.4.25


ここで高杉の誇りとした「毛利氏」について簡単な説明を加えておこう。毛利氏のルーツは平安時代の「大江氏」であって、代々「文章道」を家学としていた氏族である。
その祖先は『公卿補任』では「阿保親王」であるとされている。「江家」(ごうけ)と通称された。松陰がしばしが江家と言ったのはこういう意味があり、いわば学者の系譜の家柄で、「室町時代」に流れ者から勃興したと云われる徳川氏などとは断然異なるのである。
源頼朝が鎌倉に武家政権を打ち立てるときに、幕府の初代「政所・別当」を務めた重臣が「大江広元」である。
毛利の開祖


頼朝が「三顧の礼」に近い思いで京都から招聘したのであろう。この功績(鎌倉幕府の大黒柱としての実績)から、現在の神奈川県厚木市の「毛利荘」を安堵されたのが毛利氏を名乗ったので毛利という。したがって、毛利は鎌倉時代の功労者でもあり、有力「御家人」なのであった。安堵されたのは、大江広元の四男・季光であった。その意味では「毛利季光」をもって毛利氏の祖という言い方も可能である。この子孫が新潟の柏崎と、広島の吉田に別れ、吉田の毛利氏が連綿として続いた末に元就が戦国大名として台頭してくる。織田・豊臣の全国統一の直前に覇権を中国地方に確立したのが毛利元就である。

このようなことから、徳川氏に臣下の礼を取り続けた怨念が二世紀半にわたって消えることがなかったであろうことは、人情として容易に察しがつく。
徳川氏は覇道で天下人となった。この過程には運・不運やめぐりあわせが作用した結果である。徳川政権下において出自の名門という見地からすれば、秋田の佐竹氏や、岩手の南部氏、薩摩の島津氏などは、日本的系譜の誇りという点で、徳川氏に遥かに優るのである。
歴史に学ぶ


人間や氏族、国家の栄枯盛衰は、「平家物語」の冒頭の有名な文言ではないが、歴史が示す通りで「諸行無常」である。人の世の有為転変は、論理で説明するものとは異なる。
しかし、「矜持」は表には見えないものの、人為的に、消褪を強いるとしても、それは不可能である。だから、高杉晋作の誇りなるものは、彼一代のものでは決してなく、名門大名である毛利氏の名門譜代の家臣と云う血統的なものが潜んでいると考えると、高杉晋作の一見乱暴にも思える人生航路に私達は理解出来るものがあると思う。誇りとはそのようなものと考えるのである。一代の誇りと代々の名門の誇りとが、高杉晋作には併存していたのではないかと思うのである。
関連記事
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://kinnhase.blog119.fc2.com/tb.php/256-4a284898
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


サイドメニュー ×
メニューA  メニューB

検索フォーム ×

RSSリンクの表示 ×

リンク ×
このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム ×

この人とブロともになる


QRコード ×
QR