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吉田松陰の「5回の獄中生活経験」②
【2013/05/05 21:11】 エッセイ
「吉田松陰の獄中生活」②

吉田松陰が29年2か月の生涯において、下田の平滑で一度、萩の野山獄で二度、江戸伝馬牢に二度、と5回も牢獄に収監されるという異常な人生を送ることを余儀なくされたのは時代の先覚者ゆえのことであった。いつの世も、「先覚者」の数奇な運命は厳しくまた非運の人生が宿命づけられていたように思える。
松陰正装画像


さて、今回は掲題の第二回目である。結論を先に言おう。吉田松陰は、自分の命よりも「日本国」を真っ先に大切にした人物である。しかも、小手先の狡猾な生き方ではなく、自らの生涯を賭けた素晴らしい人生航路であった。人間は誰しも、自分の人生の将来や生き方に対して「希望」や「夢」を持たなければ生きて行けないものだろう。連続して「獄中生活」や「幽囚生活」を強いられながらも、その艱難辛苦に耐えながらも己の人生を國家に捧げた人物は、日本史上でも稀有な存在であり、死去後に一世紀半以上経過した今も思慕する人々が絶えることのないのは何故なのだろうか?「死して不朽の見込みあらば、何時でも死ぬべし・・・・・・」と、愛弟子の高杉晋作に語った言葉に「うそ」はなかった。同時に、不朽の人物となったのであった。
野山獄24.3.23


松陰の第3回目の獄中生活は安政五年の暮に収監された「野山獄」であった。収監理由は、「学術不純にして人心を動揺す」ということである。これは、この年幕府大老に井伊直弼が突如として就任し、懸案の二つの政治的課題を矢継ぎ早に裁いてしまったことに原因がある。特に、ハリスとの間に締結した「日米修好通商条約」は、前任の堀田正睦が京都まで出向いて「勅許」を得ようとして失敗した経緯があるにもかかわらず、勅許を得ぬままに調印してしまったことに対して、松陰は激しく怒り「征夷は天下の賊なり。今措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん」と、幕府に対し「違勅の国賊」と呼んだのであった。(大義を議す)
尊王家の松陰には幕府の態度が、許しがたいものであった。そいて、澎湃として沸騰した幕府非難に対し、井伊直弼は強権発動を行い反幕府の志士や公家、とりわけ水戸藩に対しての過酷なまでの処罰を課したのであった。これには「戊午の密勅」という特殊事情があった。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推した大名への処罰と絡んでいたから、慶喜の父親である徳川斉昭一派に対しては徹底していた。そして、水戸と薩摩が復讐として「大老暗殺」計画の話を聞き、尊王思想の家柄をもって自任する長州藩は、京都で大獄の指揮をとっていた老中の「間部詮勝」の暗殺を企て、門下生達と血判状をもって団結の下にこれを実行すべく「藩政府」に武器弾薬の貸し出し以来の書簡を書いたのである。驚いた周布政之助は、松陰に嚴囚を命じ、さらに野山獄への収監となったのである。これが、安政5年12月26日の再入獄である。
井伊直弼座像


そして、五回目の牢獄は安政6年7月9日の「伝馬牢への入獄」である。これは次のような事情からであった。すなわち、安政の大獄での志士逮捕の魁となった梅田雲濱の取り調べで、松陰と接触した事情と、雲濱が証言した「御所の落とし文」の筆跡が松陰のものであるとの嫌疑からである。当時、野山獄に収監されていた松陰に対し、幕府からの召喚状が発せられたのであった。これが、萩に届くのが5月中旬。25日には江戸へ向けての檻送となる。この慌ただしい10日に画かれたのが今に残る数葉の「自賛自画像」である。このことは『東行前日記』に詳述されている。
6月末に江戸に着いた松陰は、日比谷の長州藩邸から幕府評定所に出頭し、訊問を受けたが、嫌疑は簡単に晴れた。しかし、幽囚中の身に在りながら江戸や京都の情勢に詳しいのを訝った取調官の奉行から、意見陳述を求められ、間部老中暗殺計画(実際には机上プラン)を自供したことから、伝馬牢収監となった。
25.5.5伝馬牢俯瞰図

これが7月9日で、この日の詳細を高杉宛の書簡に詳しく書かれている。その後、二度の呼出しで訊問が行われるが、深く追求されずに楽観視していたが10月16日に至り、供述書へのサインを求められて、云ってもいない内容で論争となる。しかし、本筋は変えておらず、厳しい奉行の態度から「死罪」を予知して親族や門下生宛の遺書ともいうべきものを書いた。『留魂録』や『父叔兄宛』の有名な著述がそれである。そうして10月27日朝に呼び出され「死罪」を言い渡され、すぐさま評定所から伝馬牢の「処刑場」に引かれ斬首されたのであった。
この最期の松陰の態度をめぐって、天晴な従容とした態度と、喚き散らした態度の二つの異なる説があり、舟橋聖一の『花の生涯』では後者の方が描かれている。
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